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山本一義
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1.経歴
1.3.引退後
引退後も広島に残って1977年まで一軍打撃コーチ、1978年から1979年からまで二軍打撃コーチを務め、監督の古葉竹識と共に高橋慶彦山崎隆造を球界の先駆けとなるスイッチヒッターに育成。他に木下富雄や、長内孝長嶋清幸らを育てた[17]
大野豊のプロ野球入りは、出雲市で開催された山本と池谷公二郎のカープ野球教室が切っ掛け[18]

古葉の後継監督と見なされていたが[17]、古葉が好成績を続けたため[17]、広島を退団し、西本幸雄に招かれ1980年から1981年まで近鉄バファローズ二軍打撃コーチを務めた[17][19]

1981年オフ、ロッテオリオンズは、契約を1年残して退団した山内一弘の後任監督選定に難航し、ロッテ本社は「10人の候補者リスト」を作り、最初張本勲に要請したが断られ[17]、さらに野村克也土橋正幸豊田泰光にも断られた。他に元監督の金田正一や、OBの醍醐猛夫の名前も挙がっていたという。続いて有藤道世プレイングマネージャー案もオーナーの重光武雄の「あと3年、プレーヤーに専念させよう」という意向で流れ[17]、最終的に重光が旧知の鶴岡に次期監督を相談、大学の先輩である鶴岡の推薦により山本が監督に就任した。就任決定時、当時山本が単身赴任していた近鉄の合宿所「球友寮」では、「今朝、“大事な用があるから”と出かけて行ったけど、大事過ぎるやんか」とテレビのニュースを見て選手が大騒ぎになったという。近鉄は翌年のカレンダーにコーチ留任を前提として、このオフに西本幸雄の後任として監督に昇格したばかりの関口清治を囲む山本他一軍首脳陣を掲載していたが、山本のロッテ監督就任要請を受けて「ごく最近ですがロッテから話がありました。ウチとしても手放したくはないんですが、本人にとって非常に良いチャンス。本人が望むなら、出世していくんだし、喜んで送り出そうと−ということになりました」と、山崎弘海球団代表がコメントした[17][20][21]

1982年落合博満三冠王獲得に尽力した。1983年は球団史上初の最下位[22]となり解任されたが[23]、シーズン後半は、高沢秀昭やスイッチヒッターに転向させた西村徳文ら、若手を我慢して起用して育てた[24][25][26]。退任後は鶴岡の計らいで1984年から1985年まで南海ホークス一軍打撃コーチを務め、山本和範[27]吉田博之らを育てた[15]。南海退団後は1986年から1988年からまで関西テレビ1989年から1993年まで中国放送野球解説者1986年から1992年までサンケイスポーツ野球評論家カープアカデミーコーチ(1991年 - 1993年。中国放送の解説者と並行して活動)を経て、1994年から1998年まで古巣・広島の一軍チーフ兼打撃コーチを務めた。金本知憲[20]木村拓也の育成も有名だが、キャンプで打球が前に飛ばなかったルイス・ロペスセ・リーグ史上ただ一人、来日1年目から2年連続3割100打点(打点王)を獲らせるなど多くの強打者を育成した。金本は「三村さんと山本一義さんは野球界の恩人」と著書に記している[28]

同郷で2学年下の張本勲とは中学時代からの知り合いで、中学時代には対戦経験(投手・山本相手に張本が三振)がある他、山本が張本に広商入学を誘ったり、山本のロッテ監督就任を先述の鶴岡だけでなく張本(山本と入れ替わる形で現役引退)も推薦したという[29]。生一本の性格で現役時代から村山実とウマが合い、村山が阪神監督に復帰した1988年、山本に入閣を打診したが、山本が病気の父親の付き添いで病院に寝泊まりして連絡が取れず、時間切れで実現しなかったという[30]広岡達朗(広島コーチ時代に山本を指導)による東北楽天ゴールデンイーグルスの再建案でも打撃コーチに推されていた。広岡私案は野村克也の監督就任でご破算になったが、高い打撃理論と熱血指導で知られた。

晩年はプロ野球マスターズリーグに所属しながら、母校・法大の臨時コーチ、全日本少年硬式野球連盟大会会長などで後進の指導にあたる他、日刊スポーツで評論を行っていた。

2016年9月17日、尿管癌のため広島市内の病院で死去[31]。78歳没。25年ぶりにリーグ優勝を果たしたカープに配慮した本人の意志により公表は10月3日まで控えられた[32][33]

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(1.2.現役時代)
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(2.1.年度別打撃成績)
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出典:Wikipedia
2020/02/09 20:00
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