爵位
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2.東洋の爵位
2.1.中国における爵位

秦以前の爵位[編集]


中国語における爵とは中国古代の温酒器を意味し、三本足の青銅器であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は氏族制の時代に宴席での席次を定める習俗にあるとされる[4]。『孟子』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し天爵と呼び、社会的地位である通常の爵位を人爵と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると王朝にはの五等があり、それが代にはの三等となり代には再び五等となったとされる。また『書経』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべてと自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいうは爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に周礼によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべての爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内ではまたは王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「禄位」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは大夫であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)分かれたりした。

しかし甲骨文金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている[4]

実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、いわゆる爵位に該当または類似したものとして、

(女性の爵位で巫女的な存在。最高位だったが周代では格下げされ階層の配偶女性をさす言葉になった。例:婦好
(王族(王子)の意味で婦に次ぐ高位の都市の領主。周代には格下げされ都市共同体の大夫階層をさした。例:微子啓孔子
(周代、侯の中の特別に格付けされたもの。公と侯の字は当時も発音が同じだったと考えられる。例:周公旦召公?
都市国家の首長)
(殷代、王権の親衛隊的存在だったが、周では都市国家に従属する小都市の長。例:西伯昌伯邑考
(諸侯の兄弟の意で、周代の都市国家に従属する小都市や村の長。例:蔡叔度唐叔虞
(亜の字は王を取り囲む者の意味で、殷王の親衛隊的存在。周王朝には無い)
(殷の下層首長を管理する徴税官的存在。周では都市共同体の大夫階層)
(殷代、下層の首長層。周王朝には存在せず)
(「邦」の語源で、殷代には外国の王や異民族の首長をいう。『周礼』における子爵に該当。例:鬼方
の存在が知られている。

秦・漢の爵位[編集]


では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。

前漢にはの軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて軍功爵の爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された[4]

二十等爵とは第二十級徹侯(後に武帝避諱から通侯列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級関内侯第十八級大庶長第十七級駟車庶長第十六級大上造と続き以下少上造右更中更左更右庶長左庶長五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級公乗以下、公大夫官大夫大夫不更簪裊上造公士までを民爵といい民に与えられた。これらの上に諸侯王[4]、さらには天子が君臨することから実質的には二十二等爵である[4]

漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは第十一級軍衛を筆頭に第十級政戻庶長第九級執戎第八級楽卿と続き以下千夫秉鐸官首元戎士良士阯`衛造士といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。

後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに県侯郷侯亭侯などに細分された[4]

魏晋南北朝の爵位[編集]


曹魏に至ると秦以来の十二等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。222年黄初3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後224年(黄初5年)には諸王の爵位が皆県王に改められ、明帝232年太和6年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。

武帝275年咸寧3年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があり、亭侯以上には封邑が与えられた[4]。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった[4]

南朝のでは、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。

北魏道武帝396年皇始元年)に五等爵が定められたが、404年天賜元年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。500年景明元年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。

北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。

北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。

隋・唐・宋・遼・金・元の爵位[編集]


文帝の開皇年間に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(ただし「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。

中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり代に完成した。その後を経て、徐々に簡素化し代には殷や周のころのように五等や三等であった。代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。

明代の爵位[編集]


代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。

一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は長子に、嫡長孫には長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。

清代の爵位[編集]


代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のものとに分かれていた。宗室のものは和碩親王(ho?oi cin wang、ホショイしんのう)・多羅郡王(doroi giy?n wang、ドロイぐんおう)・多羅貝勒(doroi beile、ドロイベイレ)・固山貝子(g?sai beise、グサイベイセ)・奉恩鎮国公(kesi be tuwakiyara gurun be dalire gung、ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(kesi be tuwakiyara gurun de aisilara gung、ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(jak?n ubu de dosimbuhak? gurun be dalire gung、ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(jak?n ubu de dosimbuhak? gurun be aisilara gung、ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍(gurun be dalire janggin)・輔国将軍(gurun be aisilara janggin)・奉国将軍(gurun be tuwakiyara janggin)・奉恩将軍(kesi be tuwakiyara janggin)があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。

ハーンやモンゴル貴族には親王郡王貝勒貝子一等 - 四等台吉(taiji、タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。

下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。

外命婦の封号(女性の爵位)[編集]


女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。

唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻にはが授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品および国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。

宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人・安人・孺人に分けるようになった。

明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。

なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。

[4]前ページ
(1.1.爵位等級)
[6]次ページ
(2.2.日本における爵位)
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出典:Wikipedia
2019/07/25 19:30
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