篠塚和典
▼人気記事ランキング
2.人物
2.1.現役選手として
巨人では主に3番打者や2番、6番打者、晩年は1番打者の打順を担った。81年の.357という高打率は巨人の日本人野手として73年の王 (.355) 、61年の長嶋 (.353) の記録を凌ぐ、高打率であった (51年の川上は91試合で.377) 。長打を狙うバッティングに瞬時に切り替えたり、広角に打球を操る器用な選手で、進塁打は打てたものの、バントなどを売り物にしてはいなかったため、制約のある2番バッターを任された1985年・1986年は打率.307、.291と成績を落としている。85年に犠打26を記録しているが、チームは3位で貯金1であり、前年の首位打者にこれだけの送りバントをさせる采配がよいのか議論になった。しかし、85年は阪神の優勝で沸いたため、大きな議論にはならなかった。逆に、自由度の高かった1984年には.334で首位打者を獲得。87年の首位打者獲得時もチームは優勝している。規定打席には9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などにスタメンを外れていた。最後に規定打席に到達した1989年には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。82、84、85、86年は520打席以上をクリアしており (当時は130試合制) 、チームの選手の中で最も多く打席に立っていた年もある。

1987年に広島正田耕三と同率で2度目の首位打者を獲った。同率での首位打者はセ・リーグでは初の出来事であった。両リーグを合わせても1969年東映張本勲近鉄永淵洋三につぐ2度目。いずれも打率は.333だった。正田とは同じ二塁手で、ベストナインが注目されたが、チーム順位・安打数・本塁打数が上回る篠塚が受賞した。

公式戦の通算打率は.304を記録しており、オールスター戦での通算打率も.327 (55打数18安打) を残している。日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するなどしているものの、シリーズ通算打率は.292 (106打数31安打) で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスター戦、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できていた (この記録を達成している選手は日本プロ野球では2012年現在長嶋茂雄のみ) 。

1981年は、1973年の最後のV9以来、巨人が実に8年振りの日本一に輝く。大沢親分率いる日本ハムとの日本シリーズ、いわゆる”後楽園シリーズ”では4試合に先発出場。第5戦では木田勇から駄目押しの3点本塁打を放ち、最終第6戦では間柴茂有から2回に先制適時打、勝利打点を記録した。

1982年中日ドラゴンズとの首位攻防戦で無死一・二塁の場面で送りバントをした際、相手投手の郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールを左翼手大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけて捕ったボールが三塁手に中継され本塁へ投げたが、捕手中尾孝義が取り損ない、その間に打者走者の篠塚もホームインした (記録上は失策であったがランニング・ホームランのような出来事だった) [6]

1984年、.334、12本塁打で王監督1年目のシーズンに自身初の首位打者に輝く。二塁打35も最多だった。順に谷沢 (中日) 、衣笠 (広島) 、バース (阪神) 、若松 (ヤクルト) 、レオン (大洋) と見事にセリーグ6球団の強打者が並ぶ中での首位打者に輝いた。この年、クロマティが初来日したが、3番篠塚、4番原、5番スミス、6番クロマティ、7番中畑という打順が多く採用された。

1987年10月18日の吉村禎章の30号が「2ストライク4ボールからのホームラン」だったが、中畑清の談話によると、日本シリーズを前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味がなく、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったという。その西武との日本シリーズでは最後の打者となったが、この年を最後に後楽園球場での試合開催が終了したため、後楽園球場にとっても最後の打者となった。チームが西武に圧倒される中で22打数9安打3打点1本塁打と気を吐き、シリーズ敢闘賞を獲得している。

線審を廃し審判6人制から4人制になった1990年の開幕戦、ヤクルトに1対3と負けていた8回裏、好投を続けていた内藤尚行からライトポール際への飛球を放ち、一塁審判が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたため判定が非常にわかりづらかったことであり、この件の後に東京ドームのポールは白→黄(後にオレンジに再度変更)に塗り替えられた。

晩年の1990年から1993年までは持病の腰痛の悪化などもあり、若手の緒方耕一が二塁を守る機会が多くなったことなどから300打席前後の出場となり、1991年は出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければトレードに出してほしい」と発言、球団から首脳陣批判の罰金処分を受けた。

1993年6月9日の対ヤクルト戦 (石川県立野球場) では、8回2/3まで無失点、16奪三振 (当時セ・リーグタイ記録) のピッチングを続けていた当時のルーキー伊藤智仁から9回2死からのサヨナラ本塁打を放った。第2次長嶋政権初年度で、松井秀喜のルーキーイヤーだったこともあり、石川にはたくさんのファンが訪れ、注目されていたが、2度タイムをかけて伊藤をじらせた上での狙い澄ました一撃で[7]、試合後には「狙い通りの球だった」と述べていてこの年松井秀喜を得票差で上回り新人王を獲得したルーキー伊藤はグラブを投げ、古田敦也が立ちすくむ姿が印象に残されたサヨナラホームランとなった。皇太子浩宮様・雅子様ご成婚の縁起の良い日であることもヒーローインタビューでは言及していた。ただし、選手生活を通しては中距離打者として一貫し、通算本塁打率は日本プロ野球史上の通算打率上位30傑 (4000打数以上、2019年現在14位) では最小の数字となっているが、80年代は中畑、原を凌ぎチームの二塁打数に関しては最多だった。

[4]前ページ
(1.経歴)
[6]次ページ
(2.2.その他)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/08/23 18:00
ソ人気記事ランキング
2019/08/25 更新
 1位日本
 2位文京区幼女殺人事件
 3位飯田祐基
 4位名古屋小6受験殺人事件
 5位山本美香
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant