広島市への原子爆弾投下
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2.原爆被爆側の視点
2.3.原爆投下直後
NHK広島放送局が1998年に日米の科学者などの協力のもと、核分裂爆発直後の放射線の発生、火球の成長、衝撃波・熱線の照射などの状況を再現した番組を制作した。
河原町付近から東方向を撮影。中央に縦断する道がのちの平和大通り、その道左が中島町、その右が加古町。左上のサインはティベッツのもの。
稲荷町付近から西方向を撮影。手前が京橋川、中央やや右の道が相生通り
吉島付近から北方向を撮影。左やや上に相生橋が見える。

爆心地[編集]


爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現島外科内科)は、産業奨励館の東側にあり、8時15分、病院南西側の上空約600メートルで炸裂した。爆心地500メートル圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。

爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力でしばらく走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士[25]もいた。そのなかで、爆心地からわずか700メートル付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられる[26]など残った物もある。

屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死した。広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。野村は爆発の瞬間に燃料会館(会館は島病院や産業奨励館の直近170メートルに位置している。現在でも建物が広島平和記念公園内に現存している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。野村の証言によると、一瞬で燃料会館内は暗闇に包まれ、手探りで這い出した屋外も同様に闇の中だった、半壊した産業奨励館の窓枠から炎が立ち上り、やがて全壊した中島地区の各所から炎が上がり始めたという。脱出に成功した同僚は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している[27][28]

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出典:Wikipedia
2018/07/14 13:00
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