広島市への原子爆弾投下
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2.原爆被爆側の視点
2.3.原爆投下直後

■爆心地
爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現島外科内科)は、産業奨励館の東側にあり、病院南西側の上空約600メートルで炸裂した。爆心地500メートル圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。
爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力でしばらく走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士[25]もいた。そのなかで、爆心地からわずか700メートル付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられる[26]など残った物もある。
爆心地近くの生存者で、広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。野村は爆発の瞬間に燃料会館(会館は島病院や産業奨励館の直近170メートルに位置している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。野村の証言によるとこの燃料会館からの脱出に成功した者は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している[27]
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(2.4.全壊全焼圏内)

25. 戦争末期の当時は成年男子の多くが徴兵されたため、路面電車の運転手を女学生も勤めていた。広島電鉄家政女学校もあわせて参照[15]
26. “車両の紹介:単車”. 2016年12月31日閲覧。
27. 広島市編「原爆体験記」冒頭、野村英三の手記「爆心にあびる」より

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出典:Wikipedia
2017/08/07 19:01
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