孝明天皇
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8.崩御にまつわる疑惑と論争
8.1.崩御に至るまでの経緯
1867年1月16日慶応2年12月11日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行われた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌1月17日(旧暦翌12日)に発熱する。天皇の持病である肛門脱を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した1月17日(旧暦12日)、執匙(天皇への処方・調薬を担当する主治医格)であった高階経由が診察して投薬したが、翌18日(旧暦13日)になっても病状が好転しなかった。翌19日(旧暦14日)以降、伊良子光順など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。

1月21日(旧暦慶応2年12月16日)、高階経由らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。執匙の高階は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医2名を召集して診察に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、翌22日(旧暦17日)に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。

『孝明天皇紀』によれば、医師たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。

伊良子光順の日記における12月25日(新暦1月30日)の条には「天皇が痰がひどく、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された」と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」等という娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されているが、崩御の事実は秘され、実際には命日となった1月30日(旧暦25日)にも、「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは2月3日(旧暦29日)になってからのことだった。

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出典:Wikipedia
2020/01/24 23:31
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