桜田門外の変
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6.彦根藩・井伊家のその後
6.1.変の直後
当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された直弼自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加えることへの水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。

直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届けが幕府へ提出され(公辺内分の手続き)、将軍家(家茂)からは直弼への見舞品として大量の薬用・御種人蔘などが藩邸へ届けられている[86]。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には藩主・徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士達の憎悪に満ちた視線の中で重役の応接を受けた。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。その後約2か月間、幕府側は直弼の死を公表しなかった。

しかし、襲撃後の現場には後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡った。斬り合いは既に終わったにもかかわらず、天気の回復した事変当日の午後から夕方には、見物人が桜田門付近のぬかるみの道に群れを成した[63]。直弼の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭」をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で枕いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」「人参で首をつげとの御沙汰かな」などの川柳も相次いだ。事件直後の市中の状況をよみ上げたちょぼくれあほだら経も採集されている(あほだら経の項を参照)。

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出典:Wikipedia
2019/08/16 21:00
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