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桜田門外の変
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7.水戸藩・水戸徳川家のその後
7.1.変後
事変を見届けた水戸藩士・畑弥平は、品川の旅籠の金子孫二郎へ結果報告後、直ちに水戸へ急ぎ、事の経緯を藩庁へ伝えた。そのため、事件翌日の3月4日には、国許で永蟄居中の前水戸藩主・斉昭の元へ、変の詳細が伝わった[42]。水戸藩側では事態を知り驚愕、江戸の水戸藩邸では幕府へ「浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである」旨を上申した。その後、脱藩関係者らは捕縛され、会津藩主松平容保の仲裁もあって水戸藩は事なきを得た。

残された尊攘急進派の水戸藩士は、万延元年(1860年)7月に長州藩との間で結ばれた成破の盟約を背景に、文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけ第一次東禅寺事件坂下門外の変天狗党の乱などの尊王攘夷運動を先駆けた。藩領内で生じた天狗党の乱により、幕府の命に動いた保守派・諸生党が、その鎮圧へ転じた。天狗党は、前水戸藩主の子・一橋慶喜を頼って京都へ向かったが、彦根藩士は直弼公の敵討ちと戦意を高揚させて中山道を封鎖し、このためやむなく天狗党一行は美濃から飛騨を経て越前へ入り、敦賀に至った。慶喜が鎮圧軍の長として出陣したことで、元治元年(1864年)12月敦賀にて投降した。 加賀藩は彼らを厚遇したが、幕府追討軍総括、遠江相良藩主で若年寄田沼意尊は彼らを鰊倉へ入れ、20名以上の病死者を出した。さらに、参加を欲した彦根藩士らの手により、元治2年(1865年)2月23日までに、敦賀の来迎寺境内で水戸藩士・352名が斬首された。他の者は遠島・追放された。

その後、第2次長州征伐中に起きた第14代将軍・家茂の薨去に伴って、徳川慶喜徳川宗家を継ぎ、ついで第15代将軍に就任した。また慶喜は慶応3年(1867年)10月14日大政奉還を表し、その後江戸開城によって江戸幕府の歴史に幕を閉じた。

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出典:Wikipedia
2020/02/10 06:00
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