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黒澤明
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4.その他
身長182cm[14]で、明治生まれの日本人としてはずば抜けた長身[注釈 13]だった。学生時代は水泳と剣道に打ち込んだ。晩年にアカデミー賞の名誉賞を受賞した際に、プレゼンターを務めたジョージ・ルーカスやスティーヴン・スピルバーグよりも頭一つほど大きかった。
作品『海は見ていた』は、黒澤が自分で監督するつもりで脚本を執筆していたが、ラストの嵐のシーンに広大なセットを必要とされていたゆえ、コストの面で折り合いがつかずに製作が実現しなかった。黒澤の死後に熊井啓監督によって映画化されている。全編をラブストーリーで構成するという内容は、それまで黒澤の作品には珍しく、人生最後の作品には恋愛ドラマを撮りたかったという説もある。
仲代達矢は、黒澤が生前に『戦争と平和』(トルストイ)の映画化を考えていたと証している(黒澤はセルゲイ・ボンダルチュクが手掛けた映画版を「ボンダルチュクは本当に凡だな」と酷評していた「黒澤明 封印された十年」)。
「平家物語」の映画化も念願であった。晩年になって「少しづつ撮っておけば良かった」と語られている。しかし「あの公達たちを演じられる役者はいない」とも語っていた。
時期は不明ながら手塚プロとの合同製作ミュージカルも企画された。そのプロジェクトが没になり手塚プロのグループは市川崑監督の『火の鳥』制作へと移っている。
大のヤクザ嫌いで知られ、その影響が作風にも出ており、『醉いどれ天使』、『生きる』、『用心棒』などの作品でもヤクザを否定するシーンやテーマがある。
作風が確立した後は編集も自ら行った。多くの監督も編集現場には立ち会うが、黒澤は自らが編集機を使いフィルムを繋げた監督である。
私生活の黒澤はグルメで知られ[15]、この年代の日本人には珍しく肉料理が多かったと家族が著書に記している。対談した北野武もその旺盛な食欲に感嘆したと述べている。本人は北野に「食事はバランス」だと語ったらしいが、交友を通じてその言葉を理解したところによると、肉と野菜などをバランス良く取ることではなく、牛肉、豚肉、鶏肉などのさまざまな種類の肉を食べることだと言った趣旨であったと苦笑している。黒澤の肉料理好きについては、後期作品の製作進行を務めた熊田雅彦も、スッポン、寒鰤など脂っこい料理が好きで「育ちは山の手だけど、ルーツは秋田なんだろうなあと思いました」と述べている[16]。妻や娘が腕によりを掛けた手料理を振舞ったが、一方で食費があまりに高くつくので税務署に疑われるという冗談のような出来事もあったという[17]。撮影がトラブル続きで機嫌が悪いときでも、好物のスッポン料理を口にすると機嫌が直るほどであった。
また、酒も煙草も嗜んだ。特にウイスキーが大好物で、当時まだ珍しかったジョニーウォーカーホワイトホースを愛飲していた。1993年にイランアッバス・キアロスタミ監督が来日・対談した折りは「黒澤に飲みに行こうと誘われたけど、後ろにいたスタッフの方が『断って』と合図を出すのでやむ無く断った。後で理由を聞いてみると、黒澤には酒量を減らすようドクターストップが掛かっているとのことだったそうだ。是非行きたかったのでとても残念です」と後年述懐している[18]。大酒飲みであったので、三船敏郎や千秋実は打ち上げになると逃げてどこかへ行ってしまい、代わりに宝田明が呼ばれて、幹事の如く仕切らせられたという。
『七人の侍』の撮影期間中、5時にロケーションが終了し6時から広間でメインの俳優とスタッフが、黒澤を中心に車座になって食事をしていた。しかし、実態は黒澤の独演会で飲めば飲むほど話がはずみ、11時ぐらいまで話が延々と続いた。黒澤によると「みんなで一緒にご飯を食べるときが一番楽しいね。内々の話をしたりね。僕はよく、あそこで演出をしちゃってるんだよって言うんです。宴会で家族みたいになると、現場でもやりいいですよ。映画はみんなで創っているんですから」。
児玉清は若手時代に黒澤に徹底的にいじめ抜かれ厳しい指導を受けた。児玉曰く「黒澤を殴ろう」と思ったが、結局殴らずじまいで出番を終える。その後、児玉は黒澤に評価されていたことを知り、腰が砕けたという。
佐原健二は、乗っていた車が黒澤のかわいがっていた俳優と同じだというだけの理由で説教をされそうになったが、佐原と関係の深かった本多猪四郎監督が黒澤と仲が良かったということで説教されずに済んだという。
山田洋次監督が黒澤宅を訪問した際に、黒澤は小津安二郎監督『東京物語』をビデオで鑑賞していたという。黒澤は話題になった新作を含め、自宅でよく映画をビデオ、テレビ鑑賞していたが、この話を伝聞で聞いた蓮實重彦が尾ひれを付けたように語った「晩年の黒澤は小津映画ばかり繰り返し見ていた」というような事実はない。
作家の小林久三は、黒澤プロから松竹に転職した社員の話として、大学出たての彼の同プロ出勤初日に、来客中だった黒澤が立ち上がって「黒澤です。よろしくお願いします」と頭を下げたというエピソードを記し、その紳士ぶりを伝えている。
俳優の藤木悠によると、『蜘蛛巣城』の撮影中、藤木が「監督も(ゴジラ映画を)撮ったらどうですか」と聞いたところ、黒澤も「面白いね」と乗り気であったという。その話をそばで聞いていた東宝製作部の人間が藤木を呼び、「黒澤さんが本気になって(ゴジラ映画を)撮ったら会社が潰れる」と注意されたという。
所ジョージの出演する番組を欠かさずチェックしていたという。そのために『まあだだよ』への出演が決まった。
松田優作がまだ六月劇場の研修生だったころ、黒澤の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫ったが、結局会わずに追い返してしまう。その時の経験から後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語り、その言葉通りに、逝去するまで黒澤映画に出演することはなかった。1970年代後半に松田は世田谷区松原にあった当時の黒澤邸から通りをはさんで3軒先にある小劇場「宇宙舘」で自ら書き起こした作品を上演していた。
菅井きんは、映画出演時に黒澤から優しくしてもらい、自分の演技に落ち込んでいる時に慰めてくれたと語っている。赤ん坊を背負う母親役を演じた際、雨のシーンの撮影時「赤ちゃんはいらない。濡れたら可哀想だから」と気遣いをされたという。
上記の菅井の代表作である『必殺シリーズ』を黒澤が自宅でTVで見ていた時に小泉堯史が訪れ、「これ(必殺)面白いんだよ」「軽演劇をやってた人(主演の藤田まこと)って上手いんだよ」と小泉に語り、後に小泉は藤田主演で『明日への遺言』を監督した[19]
カンヌ映画祭の時にマドンナと同じホテルであったが、マドンナ側から「一緒に食事を」との申し出に対して黒澤監督が付き添いの娘に「嫌だ、どうしてもと言うなら窓から飛び降りて逃げる」と言った。マドンナをどう思うか?という質問に黒澤監督は「面白いね、しかしね、なかなか。他の映画も観ましたけどね、マドンナが主演してるやつね。テレビですけどね。いろんな意味でね。何て言うのかなぁ勝手なことしてるでしょ?思い切ってこだわらずに。で、キャラクターとしてとても面白いなぁと思いましたけどね」。
生前、自らがもし映画館を作るとしたら?という前提で百本の映画をチョイスしたが、そのうち最も絶賛したのがサタジット・レイ『大地のうた』であった[20]
スタッフや俳優からは「クロさん」と呼ばれた。演出中に俳優を罵倒する際の最大級の罵り言葉は「このでこすけ!」であった。この「でこすけ」が出るともう収拾がつかなかったという[21][注釈 14]
高倉健は「黒澤監督の晩年の作品には、良いものがないと思うんですよね。僕は、監督が(作品の常連だった)三船敏郎さんと別れたのが大きい気がする。志村喬さんもそうだったけれど、三船さんは(黒澤作品の)エンジンの大きな出力だったのでしょう。二人が抜けたことで、その出力がどーんと落ちた。怖いですよね。映画は絶対に一人ではできないんですよ」と評している[22]。高倉は『』の鉄修理(くろがね・しゅり)役で黒澤から直々にオファーされていたが、主演映画『居酒屋兆治』の準備に入っていたため、黒澤の直談判による説得も断っていた。黒澤から「あなたは難しい人」だと言われた高倉だが、その後偶然『乱』のロケ地を通ったことがあって、出演すれば良かったと後悔している[22]
映画『明日を創る人々』は、山本嘉次郎関川秀雄と共に演出として黒澤がクレジットされているが、黒澤はこの映画を自分の作品とは認めておらず[注釈 15]、後に名前の掲載も拒否しているため、一般的には黒澤の作品には含まれない。
黒澤は大林宣彦監督の『さびしんぼう』を大変に気に入り、自分のチーム“黒澤組”のスタッフにも観るように指示したというエピソードがある[24]
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(3.1.世界的な影響)
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(5.芸能界に関係する家族)
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出典:Wikipedia
2020/02/18 00:30
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