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江本孟紀
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1.経歴
1.2.社会人野球からプロ野球へ
大学卒業後は社会人野球・熊谷組へ進み、1970年第41回都市対抗野球大会に出場。1回戦で三菱重工神戸と対戦するも大敗を喫するが、江本は大会で唯一の登板となったこの試合を1回無失点で抑えた[6]。社会人時代は調子が良く、公式戦で完封勝ちを収めるなど成績も良かったことからドラフト会議での指名を期待していたが、同年のドラフト会議では予想に反して指名されなかった。その後、法政大学の前任監督でロッテオリオンズのスカウトを担当していた田丸仁から入団を勧誘されたが、当時のロッテには小山正明成田文男木樽正明村田兆治などのエース投手が多く在籍しており、先発投手陣に加わるのは難しいと判断して拒否した[6]1971年の春季キャンプ直前、東映フライヤーズのスカウトから、前年のドラフトで2位指名した井上圭一が入団拒否したため、「ウチ来る気はないか?」と江本を勧誘、「行きます」と返答したが、周囲からは「プロは無理」「スカウトに騙されている」などと猛反対され、さらに母親からも「熊谷組のような立派な会社に入れて将来も安定しているのに…」と言われたが、父親は唯一賛成した[6]。結局、江本は契約金400万(税金で引かれて手取り330万)、年俸120万でサインし、東映フライヤーズへ入団した。背番号は49。

キャンプ直前の入団だったこともあって、チームへ合流後に登板したフリー打撃では[7]大杉勝男白仁天に一球もストライクが入らず[8]、あまりの酷さに投手コーチの土橋正幸は激怒し、大杉や白からは「バカ野郎!アホか」「ストライク入らんヤツがプロの投手か」と貶され、終いには江本の元へバットとボールが飛んできたという[7]。江本は「次の打者にストライクが入らなければ辞める」と言う覚悟で、足が震えたまま張本勲へ投球し、案の定ストライクが入らなかったが、張本は外れたボールを片手で打ち、その後も江本が投げるボールを一言の文句も言わず当て、そのうちに江本はストライクが入るよう修正できたという[8]。これで自信を付けた江本は紅白戦でも調子を上げ、3月からのオープン戦で一軍、公式戦も開幕一軍スタートを勝ちとり、「この年(1971年)に入団した中では100人いたら(自分は)100番目の選手だ。ドラフト外として最後の最後にプロ入りしたルーキーが開幕一軍に食い込むことが出来たのも、あのフリー打撃があったから。これは全て張本さんのおかげ。間違いなく大恩人の一人だ」と回想している[7]

プロ初登板は4月11日の対西鉄ライオンズ戦(平和台球場)だったが、連続四球と安打を浴び、2失点で終わった[7]。この年は26試合で未勝利(4敗)に終わる[7]が、成長株として好評価を受け、翌年の先発ローテーションの一角として秋季キャンプでは「江本を先発入りさせるためのようなもの」とされた猛練習をこなした[7]。しかし、同年オフに高橋博士との交換トレードで、佐野嘉幸と共に南海ホークスへの移籍が決まり、入団後僅か一年で所属チームが変わることとなった。これについて江本は著書で、「いずれにしてもこのトレードは野村さんの戦略、商売上手を示す伝説として語られるようになった。世間では江本は野村監督に発掘されて育てられたという伝説が流布しているが、これは違うと断言させて頂く」「少なくとも投げられる『ピッチャー・江本』に育ててくれたのは東映であり、(投手コーチの)土橋さんだ。一年目、東映で徹底的に鍛えられた。そこでマグマのように蓄えられたパワーが2年目に噴き出すのは自然な流れ。勝てるピッチャー・江本にしたのが野村さんだった。ただし野村さんがただ者では無いことは事実だ」と記している[7]

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(1.3.南海時代)
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出典:Wikipedia
2020/02/14 19:10
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