通商条約締結問題と並行し、幕府内では将軍継嗣問題を巡る政争が進展していた。松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)ら有力大名は自藩の政治参加を求めて一橋慶喜(一橋徳川家当主)の擁立を図る運動を起こし、雄藩協調策を採る阿部ら幕臣もこれを支持した(一橋派)。一方、幕府の権威再興を目指す保守派の井伊直弼(彦根藩主)らは徳川慶福を支持した(南紀派)。
阿部の急死(1857年(安政4年))後も、老中首座堀田正睦らにより幕府の雄藩協調策は不変であったが、頑迷な攘夷論者であった孝明天皇が条約の勅許を拒否したことにより、政治的に打撃を受ける。南紀派が勢いを得て井伊直弼が大老に就任する一方、堀田ら一橋派幕臣は日米修好通商条約の勅許を得ぬままの即時調印を決断するが、将軍継嗣問題で巻き返すことができず失脚した。