公武合体
▼人気記事ランキング
2.展開
2.1.一橋派による幕府・雄藩協調
1853年(嘉永6年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが大統領の国書を持って来航、軍艦による示威を伴いつつ開国を要求した。当時の老中首座である阿部正弘は、大名の反抗もあって失敗に終わった天保の改革の反省もあり、薩摩藩雄藩との協調を重視する方針を取った。阿部は諸大名に開国についての諮問を行った上、朝廷に国書の受理を通達したが、このどちらもが前例のないことであった。日米修好通商条約の締結を巡る諮問では、諸大名の間では当初は戦争も辞さぬ強硬論もあったが、開国策を採る幕府による度重なる諮問の末、結局は大名間でも通商容認論が主流を占めるに至った[5]

通商条約締結問題と並行し、幕府内では将軍継嗣問題を巡る政争が進展していた。松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)ら有力大名は自藩の政治参加を求めて一橋慶喜(一橋徳川家当主)の擁立を図る運動を起こし、雄藩協調策を採る阿部ら幕臣もこれを支持した(一橋派)。一方、幕府の権威再興を目指す保守派の井伊直弼彦根藩主)らは徳川慶福を支持した(南紀派)。

阿部の急死(1857年安政4年))後も、老中首座堀田正睦らにより幕府の雄藩協調策は不変であったが、頑迷な攘夷論者であった孝明天皇が条約の勅許を拒否したことにより、政治的に打撃を受ける。南紀派が勢いを得て井伊直弼が大老に就任する一方、堀田ら一橋派幕臣は日米修好通商条約の勅許を得ぬままの即時調印を決断するが、将軍継嗣問題で巻き返すことができず失脚した。

[4]前ページ
(1.概要)
[6]次ページ
(2.2.井伊政権と戊午の密勅)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/06/03 10:30
ソ人気記事ランキング
2019/10/15 更新
 1位日本
 2位令和元年台風第19号
 3位ジョンベネ殺害事件
 4位10月14日
 5位正木裕美
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant