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後鳥羽天皇
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2.歌人として
後鳥羽院(ごとばいん/ごとばの いん)は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。

院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王九条良経藤原俊成慈円寂蓮藤原定家藤原家隆ら、九条家歌壇の御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。同年8月以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は飛鳥井雅経源具親鴨長明後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人。この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせており、これが後に九条家歌壇、御子左家の歌人らとともに代表的な新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となる。

2度の百首歌を経て和歌に志を深めた院は勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)7月には和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信藤原有家六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)、開闔(かいこう)は源家長である。またこれより以前に未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰した。当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画だったが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても日本文学史上大きな価値を持つ。さらにこのような大規模な企画を経て、同年11月には藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。

また、室町時代の皇族貞成親王後花園天皇実父)が著した日記『看聞日記』応永31年2月29日条(高松宮家旧蔵本)には後鳥羽院の宸記(日記)のうち、建保3年5月15日・19日および11月11日条の一部が引用されている。そこには、院が御忍びで地下連歌の席に出向いて、当時自らが出していた銭禁令(宋銭禁止令)に反してを賭けて勝利したこと、後日このことを「見苦し」としながらも再び連歌で賭け事をしたことが記されている[10]

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出典:Wikipedia
2019/12/22 15:30
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