サービス終了のお知らせ
戸村一作
▼人気記事ランキング
2.人物
2.2.平和主義者からの転換
反対運動開始当初の戸村が平和主義者であったことは、反対派だけでなく当時成田警察署長であった飯高春吉も認めるところであった[12]

しかし、1968年2月26日の新左翼学生と警察の衝突に巻き込まれて負傷したことを契機に、これまで「暴力主義と一線を画すのだ」などと学生らを諫めていた戸村は一転して過激な主張をするようになり、再び新左翼学生らと警察との間で大規模な衝突が起こり多数の負傷者を出した3月10日(→TBS成田事件)にはそれまでのベレー帽のみのスタイルをヘルメットを被った後年よく知られる出で立ちに改め、青年行動隊に「武器をとれ」と檄を飛ばしたとされる[3]

一方、飯高は、3月10日の集会においても和服にベレー帽姿の戸村が「今日はその角材を控えてください、得物をそのシンボルとして決して振り回してもらいたくない」と学生らに呼び掛けており[12]、戸村が公に実力闘争を主張をするようになったのは3月31日の集会からだとしている[26]。また、戸村は入院中に飯高が見舞いに来た際に啖呵を切ったと回想しているが[27]、飯高は実際にはそのようなやり取りがなかったと主張している[28]

反対同盟事務局長であった北原鉱治は、3月10日に頭に包帯を巻いた状態で病院を抜け出してきた戸村が武装した学生らに対し「君たちが手にしたゲバ棒を象徴として使え」と微妙な表現を使って演説したとしている。北原は、戸村がキリスト者として若い学生がケガをするのは忍びないと苦悩していたのだろうと回想している。そして、3月10日当日は北原と北富士忍草母の会事務局長が全学連の部隊に「(空港)公団に向けて前進しよう」「手にした武器を真っ向から振り下ろせ」と"激励"したのだとしている[29]

運動初期の戸村は「問答無用はよくない、自分のカラにとじこもることになる。運輸省や県とも話し合うべきだ」という持論を持っていたが、次第に政府側の人間との接触を避けるようになった。「裏切り者」に対しては情け容赦がなかったが、他方で条件賛成派となった古村の農家に対しては反対派の主力となった戦後開拓農家に対してよりも同情的であった[注 10]

地域ぐるみの生活闘争の指導者であったはずの戸村は、1970年代後半には「三里塚闘争は階級闘争である」と新左翼党派と同様のスピーチをするようになり、反対同盟幹部らともあまり話をしなくなったが、元反対同盟員は様々な集会に出かけて演説を行っていた戸村がその場の聴衆に合わせて言葉を選んだのではないかと回想している[3]

デイビッド・E・アプターは、「ある意味では、戸村は生涯大人になりきらなかった人ともいえるかも知れない。しかし、だれかが筋の通らないことをした場合には、頑固で融通のきかない態度を堅持することができる人でもあった」「戦略についてはほとんど素人で、原則と正義の闘いを続け、信条を明確な言葉で伝える優れた力を発揮したが、現実と象徴を混同する傾向を持ち、信条を象徴に言い換えることによってあたかもそれが現実になると考えているふうであった」としている[2]

[4]前ページ
(2.1.家族・キリスト教との関わり・文化活動)
[6]次ページ
(2.3.反対運動のシンボル)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2020/02/13 21:34
ソ人気記事ランキング
2020/03/28 更新
 1位成宮いろは
 2位増岡弘
 3位大学の略称
 4位玉木玲
 5位ジャーマンウイングス9525便墜落事故
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant