サービス終了のお知らせ
古田重然
▼人気記事ランキング
概要
古田 重然(ふるた しげなり[1])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名茶人千利休とともに茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代から江戸時代前期にもたらした。

名前[編集]

一般的には茶人古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下「織部助」の官位に叙任されたことに由来している。「織部正」は自称と考えられている。『断家譜』、『系図纂要』においては、重然(しげなり)。初名は景安(かげやす)。また手紙には古織部、古田織部、古田織部助、古田宗屋と自署した。

生涯[編集]

武将・重然[編集]

天文12年(1543年)、美濃国国人・古田重安の弟・古田勘阿弥(重定)還俗主膳重定と改名したという)の子として生まれ[2][注釈 4]、後に伯父・重安の養子となったという。家紋は三引両。『古田家譜』[注釈 5]に勘阿弥は「茶道の達人也」と記されていることから、重然も父・勘阿弥の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[3]。しかし、松屋久重編の「茶道四祖伝書」では佐久間不干斎(信栄)からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されていることや、重然の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の重然40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする説がある[4]

古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)の織田信長の美濃進駐、あるいはその前に織田氏の家臣として仕え、重然は長岡藤孝使番を務めた[5]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚[6]

天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[7]。その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[8]と少ないながらも武将として活動している。

信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話[9]が残る。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため重然は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐四国平定にも秀政と共に出陣している[10]

同年7月、秀吉が関白になると、重然は年来の功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。このとき、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・千を中川秀政の養女とした上で娶らせ中川家の家老としたという。この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家臣として存続した[11]。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。その後、九州平定[12]小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられる[13]

なお所領は、南山城の瓶原(現木津川市)と東大和の井戸堂(現天理市)で、8千石であった。

茶人・織部とその友誼[編集]

天正10年(1582年)から千利休の書簡に重然の名前(左介)が見える。この間に利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲に数えられている。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、重然と細川忠興(三斎)のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、天下一の茶人となった。慶長3年(1598年)には子の重広に家督を譲った[14]とされるが、史料に確認できない。

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。その恩賞により、晴れて1万石の大名になっている。

この時期の重然は茶の湯を通じて朝廷貴族寺社経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、太閤秀吉の数寄の和尚(筆頭茶堂)、次いで二代将軍・徳川秀忠の茶の湯指南役にも抜擢されている。

最期[編集]

浅野幸長とのやり取りをまとめた『茶道長問織答抄』に、「こんなに高齢なのに、どうして西へ東へと飛び回らねばならぬのだろうか。これでは病気になろうというものだ。寒い大坂に行くのも茶の湯のせいだ」と答えている。これは、徳川・豊臣氏の政争に巻き込まれ、すべてに嫌気がさしている精神状態を示している。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の折りに重然の重臣である木村宗喜豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代板倉勝重に捕らえられた。「豊臣恩顧」の大名・重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた[15]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日7月6日)に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。享年73。後に宗喜も処刑されている。12月に子の重広[注釈 3]も江戸で斬首され(『断家譜』)、古田家は断絶した。重然は大徳寺玉林庵に葬られたが、現在の墓地は三玄院の墓域となっている。

なお子供には、重広のほか、重尚(前田利常家臣)、小三郎(池田利隆家臣)、重行(九郎八、豊臣秀頼家臣)、重久(左近、徳川秀忠家臣)がいた。

重然の妻・仙が隠棲した北野天満宮隣りの青霄院が、仙の死後、西堀川の興聖寺に移転して一塔頭となり、その後、豊後岡藩家老・古田家が織部とその子らの墓を建てている[16]

織部の茶の湯[編集]

織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えの通り、利休の静謐さと対照的な動的な「破調の美」の道具組を行い、将軍・大名の茶の湯の式法を制定し、それは織部流といわれた。職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯のコーディネーターとして指導にあたった[17]。茶の湯の弟子には、徳川秀忠伊達政宗佐竹義宣金森可重佐久間将監毛利秀元浅野幸長島津義弘小早川秀秋大久保忠隣、大久保藤十郎、大野治長大野治房猪子一時小堀遠州上田宗箇、中野笑雲、原田宗馭、板倉重宗南部利直永井尚政佐久間勝之岡部宣勝、船越永景、本願寺教如広橋兼勝、常胤法親王、安楽庵策伝角倉素庵本阿弥光悦などがいる。

近年では、古田織部美術館(京都)の館長・宮下玄覇が古田織部流茶湯研究会を発足。豊後岡藩に伝わった織部流を元に、膨大に残された江戸時代前期以前の織部流の茶書を紐解いて点前の手順を修正し、茶道教室を開いている。

織部好みの代表的な茶室に、藪内流の「燕庵(えんなん[18])」[注釈 6]がある。しかし、初代剣仲が作った織部好みの建物は1864年蛤御門の変で焼失し、現存の「燕庵」は見舞いとして有馬郡結場村の武田儀右衛門邸から移築された写しのものである[19][20]

茶書(茶道書)としては『織部百ヶ条』などを残している。弟子の大坂衆・岡村登々之助が記した『古織伝』というものもある。

書家として織部の書は左へ斜めにずれるのが特徴で、本阿弥光悦に影響を与えたとする説もある[21]

博多の豪商、神屋宗湛は、織部の茶碗を見た時、その斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と、『宗湛日記』に書いている。なお、織部が行った「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字[注釈 7]」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟(ながれえんご)」[注釈 8]があげられる[注釈 9]

織部について加藤唐九郎は「利休は自然の中からを見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた[23]

逸話・伝承[編集]

茶話真向翁』や『茶話指月集』により、以下のような逸話が伝わっている。

利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。すると一座にいた織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した[24]
利休が茶入の蓋を象牙で作らせたところ、?(ス)という疵があった。恐縮する細工人に対して利休は「これは面白いものを作ってくれた」と喜ぶことで慰め織部を呼んで茶会を催した。利休はその際、蓋の?を勝手側に向けつまみの外側に茶杓を置いて点前を進めた。すなわち織部のほうに茶杓を置いたのである。茶会のあと、織部はその茶入を利休に乞うて持ち帰り、今度は利休を茶会に招いて茶入の蓋の?を客のほうに向けつまみの内側に茶杓を置いた。利休は「さてもよくやった。織部ほど作意のできる茶人はまたとあるまい」と述べて褒め称えた[25]
織部が薄板を敷かずに籠の花入れを置いていたのを利休が褒めて「籠の花入れを薄板に乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くないと思っていた。このことに関しては私があなたのお弟子になりましょう」と言った、それから利休は薄板を敷かずに直に籠の花入れを置いていたという[26]
織部が大坂の陣佐竹義宣の陣にいた際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。そこで大坂方が織部に鉄砲を撃った。弾は左目の上をかすめて負傷したという[27]

関連施設[編集]

岐阜県本巣市の「道の駅織部の里もとす」には「織部展示館」が併設されている。また、道の駅に隣接して樽見鉄道織部駅が存在する。
愛知県名古屋市名古屋城御深井丸の茶席施設に古田織部を顕彰するため昭和30年(1955年)に建立された「織部堂」という茶室が存在する(利用には事前の申し込みが必要)。
古田織部四百年遠忌にあたる平成26年(2014年)に、京都市北区古田織部美術館がオープンした[28]

織部を題材にした作品[編集]

へうげもの
『古田織部―乱世を駆け抜けた生涯』[29]
「割って、城を」
「ひつみて候」
「へうげの茶」
フルタ製菓のCM(2016年)

演じた俳優[編集]

戸沢佑介 - NHK大河ドラマ『黄金の日々』(1978年)
入江正徳 - NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987年)
嵐圭史 - 映画『利休』(1989)、勅使河原宏監督、原作は野上弥生子『秀吉と利休』
加藤剛 - 映画『千利休 本覺坊遺文』(1989)、熊井啓監督、原作は井上靖『本覚坊遺文』
仲代達矢 - 映画『豪姫』(1992)、勅使河原宏監督、原作は富士正晴
大倉孝二 - テレビアニメ『へうげもの』(2011年4月-2012年1月)
古澤巌 - NHK大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』(2011年)第24回

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

参考文献[編集]

熊倉功夫編『茶道聚錦 織部・遠州・千宗旦』小学館 、1983年10月
桑田忠親『古田織部―人と茶の芸術』徳間書店〈美術・趣味シリーズ〉、1977年(原著1968年)、再版。ASIN B000JA5VJ6
桑田忠親『古田織部の茶道』講談社講談社学術文庫〉、1990年7月10日。
矢部良明『古田織部―桃山文化を演出する』角川書店角川叢書〉、1999年7月25日。
宮下玄覇『古田織部の世界』宮帯出版社、2014年6月11日。
古田織部四百年遠忌追善茶会実行委員会編 『古田織部四百年忌図録(古田織部に関する誤伝と道統)』 宮帯出版社、2014年12月31日。 
諏訪勝則 『古田織部 美の革命を起こした武家茶人』 中央公論新社〈中公新書〉、2016年。 
熊倉功夫編, 編纂.「特集 天下の茶人 古田織部の謎」『芸術新潮』平成4年(1992年)7月号、新潮社、1992年7月。
「週刊日本の美をめぐる No.18 桃山3 利休・織部と茶のしつらえ」『小学館ウイークリーブック』、小学館、2002年9月。
桑田忠親加藤土師萌『織部 陶芸指導者・大茶人・戦国大名としての古田織部のすべて』京王百貨店、1967年。
秀吉・織部と上田宗箇展実行委員会編 『よみがえる桃山の茶 秀吉・織部と上田宗箇展』 広島県立美術館、2000年1月http://www.geocities.jp/hpam_hiroshima/backnumber/2000UedaSoko.html 
佐野美術館編 『利休・織部・遠州の書 侘びと風雅の筆あと』、1995年10月。 
宮下玄覇編 『没後四百年 古田織部展[補訂版]』 宮帯出版社、2015年11月。 
古田織部美術館編 『豊後『古田家譜』−古田織部の記録−』(改訂版) 宮帯出版社、2016年12月。 

関連項目[編集]

織部焼
織部流
古田織部美術館 - 京都市北区にある織部ゆかりの茶道具を展示する美術館。
オリベプロジェクト - 岐阜県が創造的活動を行った重然の精神に基づき推進する政策。
おりべネットワーク - 多治見市を中心に展開するケーブルテレビ局
織部賞
古田重勝 - 一族といわれるが、重然と混同されることも多かった大名。
織部流茶道教室(古田織部流茶湯研究会)

出典:Wikipedia
2020/03/25 13:01
ソ人気記事ランキング
2020/03/30 更新
 1位まわり将棋
 2位今村昌平
 3位3月29日
 4位成宮いろは
 5位ジャーマンウイングス9525便墜落事故
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant