古代ギリシア
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3.鉄器時代
3.3.ヘレニズム時代
紀元前4世紀前半、スパルタ、テーバイ、アテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、さらにはその力を失墜させて行った。その中、北方で力を蓄えていたマケドニア王国フィリッポス2世がギリシア本土へ勢力を伸ばしてゆく。特に第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を手中に収め、その後もアテネ・テーバイ連合軍をカイロネイアにおいて撃破、ギリシア征服を成し遂げた。ピリッポス2世はコリントス同盟(ヘラス同盟)を結びその盟主となってペルシア遠征を決めたが、前336年暗殺された。その後を継いだのが大王アレクサンドロス3世である[39]

ギリシアの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロスはトリバッロイ人の反乱、イリュリア人の大蜂起、テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、コリントス同盟の会議を招集、父王フィリッポスの意志を次いでペルシア遠征を行うことを決定した。前334年春、アレクサンドロスはギリシアを出発、大遠征を開始した。前331年ペルシアを崩壊させるとそのまま東進、バクトリアソグディアナを越え、インドまで到達し、インダス川を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、前323年、アレクサンドロスは熱病のため死去したが、彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった[40]

アレクサンドロスの死後、王位をめぐっての争いが発生し、遺児アレクサンドロス4世アッリダイオスが共同統治することが決定されたが、「ディアドコイ(後継者)」と呼ばれる有力者、ペルディッカスアンティゴノスプトレマイオスリュシマコスセレウコスエウメネスらの間で互いに勢力を広げるための争いが生じ、ディアドコイ戦争が勃発した。その中、前310年にアレクサンドロス4世が暗殺され王家の血筋が断絶すると、勢力争いで生き残ったディアドコイらは王を名乗り、さらに争った。前301年、イプソスの戦いが起ると、プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスらにより帝国は分断され、プトレマイオス朝エジプトセレウコス朝シリア、リュシマコス朝、カッサンドロス朝がそれぞれ成立した[41]

ディアドコイ戦争後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、マケドアニアを含むギリシア本土はその後も争いが続き、最終的にリュシマコスがマケドニアの支配に成功したが、リュシマコスもセレウコスとの戦いで戦死した。リュシマコスの死去により、ギリシア北部の防壁がなくなり、ガリア人らの侵入が始まった。南下したガリア人らはマケドニア、トラキア、テッサリアを攻撃したのち、デルフォイ、小アジアまで進撃したが、これは撃退された。前227年トラキアでガリア人らを撃破したアンティゴノス・ゴナタス(2世、アンティゴノスの孫)がマケドニア王となり、ここにアンティゴノス朝が成立し、それまで様々な支配者のために混乱していたマケドニアは一旦落ち着きを見せた[42]

前3世紀後半に入るとイタリア半島を統一し、第一次ポエニ戦争に勝利したローマがバルカン半島へ進出し始めた。前229年に第一次イリュリア戦争に勝利したローマはバルカン半島へ初めて進出した。第二次イリュリア戦争に勝利したローマはイリュリアに圧力をかけ始めたが、マケドニアはイリュリアと友好関係にあったため、間接的ながらローマとの関係を持つようになった。イリュリアへの圧力を強めていたローマが第二次ポエニ戦争の勃発によってカルタゴの将軍ハンニバルの攻撃を受けてカンナエの戦いに敗北すると、マケドニア王フィリッポス5世はハンニバルと同盟を結んでローマに対抗しようとしたが、これに反応したローマはこれを攻撃、ここに第一次マケドニア戦争が勃発したが、この戦いはフォエニケの和約で終息した[43]

フィリッポス5世はシリアのアンティオコス3世と同盟するとローマの友好国ロドスペルガモンらはこれに脅威を覚え、ローマに支援を要請した。第二次ポエニ戦争に勝利したことで東地中海への進出を目論んでいたローマはこれを快諾、第二次マケドニア戦争が勃発した。前197年キュノスケファライの戦いでローマが大勝するとマケドニアはギリシア本土からの撤退を余儀なくされ、ギリシア本土はローマの影響下に置かれた。この時、ローマのフラミニヌスはギリシア人の自由を宣言、ギリシア人らを歓喜させた。「このギリシアの自由の宣言」によってローマはギリシアの保護者となってギリシア支配を強めて行った[45][46]

第二次マケドニア戦争で敗北したフィリッポス5世は国力の増強に努めたが、その次の王ペルセウスは先代とは違い積極的な勢力拡大を目論んだ。そのため前171年第三次マケドニア戦争が勃発、前168年ピュドナの戦いでマケドニアは敗北、ローマの保護下に置かれマケドニア王国はここに滅亡した。そして前149年ペルセウスの子を名乗るアンドリスコスが蜂起、第四次マケドニア戦争が勃発したが、ローマはこれを鎮圧、マケドニアはローマの属州となった[47]

一方、マケドニアに支配されたポリスはヘレニズム時代を通じて未だ健在であった。ただし、ポリスという単位はすでに限界に達しており、複数のポリスで相互に協力し合うようになったことがヘレニズム時代の特徴として挙げられる。前3世紀にはアイトリア連邦アカイア連邦という連邦組織が形成され、すでに限界に達していたポリスを集団化させることでギリシアにおける政治勢力としてマケドニア、シリア、ローマなどに対抗、時には連携して行った。アイトリア連邦はギリシア北西部でガリア人の侵入に対抗するために形勢され、当初こそ親ローマであったが、第二次マケドニア戦争以後は反ローマの中心となって戦ったが、同盟を結んでいたシリアがシリア戦争で敗北するとローマの支配下となった。アカイア連邦はペロポネソス半島で形勢され、スパルタを吸収するなどペロポネス半島で勢力を誇ったが、前146年ローマに敗北したことでアカイア連邦は崩壊、ギリシア世界の独立も同時に失われた[48]

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出典:Wikipedia
2019/11/02 09:00
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