源義家
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1.生涯
1.6.院昇殿から死没まで
義家は後三年の役から10年後の承徳2年(1098年)に「今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依済舊國公事、除目以前被?(そう)行也(件事依有院御気色也)、左大史廣親候奏」(『中右記』正月23日条)と白河法皇の意向と正月に陸奥守時代の官物を完済したこともあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条の裏書きに「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と書く。

康和3年(1101年)7月7日、次男の対馬守・源義親が、鎮西に於いて大宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す(『殿暦』)。しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は翌康和4年(1102年)2月20日、義親と共に義親召問の官吏を殺害してしまう。12月28日ついに朝廷は義親の隠岐配流と資通の投獄を決定する。

『中右記』によると、長治元年(1104年)10月30日に義家・義綱兄弟は揃って延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。

嘉承元年(1106年)には別の息子の源義国足利氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟・源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で義家に義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に68歳で没する。翌日、藤原宗忠は日記『中右記』に「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と追悼する。死後は三男の源義忠が家督継承し、河内源氏の棟梁となった。

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出典:Wikipedia
2020/01/11 00:00
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