源義家
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1.生涯
1.2.前九年の役から下野守まで
鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、天喜5年(1057年)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。その後出羽国の清原氏の応援を得て頼義は安倍氏を破った。

しかし、『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原武衡乳母の千任に「なんぢが父頼義、貞任宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍・清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり」と言われて激怒したことが載っているが、「名簿」(みょうぶ)を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。康平6年(1063年)2月25日に義家は従五位出羽守に叙任された。

しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌康平7年(1064年)に朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。ただしそれが承認されたかどうかは不明である。この年、義家は在京しており美濃国において美濃源氏の祖・源国房と合戦している。

延久2年(1070年)に義家は下野守となっており、陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶桑略記』8月1日条に見える。当時の陸奥守は大和源氏源頼俊で、即位間もない後三条天皇が頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服(延久蝦夷合戦)自体は成功したが、この藤原基通の件の為か頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。

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出典:Wikipedia
2020/01/11 00:00
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