金田正一
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2.経歴
2.3.引退後

第一次ロッテ監督時代[編集]


引退後は日本テレビ1970年 - 1972年)・ニッポン放送(1972年)で解説者を務める傍ら、タレントとしても活動していた[20]

1972年11月17日ロッテの監督に就任した。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。1期目の就任当初は「あんな自分勝手な男が監督なんて出来るのか?」という声も上がっていたが、前年5位の投手陣を走り込み重視のトレーニングで鍛え上げ、Aクラスの3位に浮上させた。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男八木沢荘六木樽正明)もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。この頃から宮城球場を本拠地としながら各地で主催試合を行う時代の幕開けとなり、「ジプシー・ロッテ」と揶揄された。そんな中で金田は行く先々で大人気となり、前期優勝のかかった神宮球場の試合にはファンが殺到。入場しきれないファンが球場を取り巻き、テレビ局も急遽中継するほどのフィーバーぶりだった。

1974年は前期こそ阪急に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、日本シリーズでは巨人のV10を阻止した中日を破る。日本一になった際には「長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や」と喜び[21]外堀通りで行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。さんまのまんまに出演した際(1987年11月30日)には「どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた。」と語っている。

1975年は開幕からピリッとせず、4月23日から5月5日まで心臓発作で休養し、二軍監督の高木公男が代行を務めた[22]。6月26日の近鉄戦(藤井寺)では矢頭高雄コーチを代理監督とし、ベンチ入り選手14人(投手:9人、野手:5人)で行い、1-4で敗戦して前期最下位が確定。金田や主力選手ら(有藤通世、木樽、弘田澄男山崎裕之ラファエル・バティスタビル・マクナルティ)は帰京して後期に向けた練習をしていたという状態で、後日リーグ理事会から手抜き試合であるとして厳重注意された。後期は2位に盛り返したが、総合4位に終わった。シーズンオフの11月には韓国へ遠征し、24日・25日に東大門野球場で現地のノンプロ選抜チーム「全韓国」と対戦。2試合戦っていずれも勝利している。

1976年江藤慎一が加入。村田兆治が最優秀防御率を獲得する活躍を見せたが、前後期ともに3位だった。1977年白仁天高橋博士安木祥二が加入。有藤が首位打者を、新加入のレロン・リーが本塁打王と打点王の二冠を獲得する活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフで阪急に敗退したため日本シリーズ出場はならず。

1978年には川崎球場を本拠地とし、八木沢に「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことで一気に求心力を失う。前期の終盤に15連敗を記録して5位に転落し、その低迷のイライラを選手にぶつけて更に孤立。後期もなかなか勝ち上がれず、8月22日のスポーツ紙には「金田更迭」の大見出しが載る。優勝の可能性が消えてからはゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、時には遅刻することもあった[23]。最大の後見役であった重光武雄オーナーからの了承もあり、9月30日に辞表を提出し10月2日正式に退任した[24]。なお、重光オーナーは金田の後任候補として前年オフに南海を追放された野村克也を入団させており、選手兼任監督として就任要請をするも野村は尊敬していた金田の代わりは恐れ多いと固辞し、退団。結果としてもう一人の監督候補だった山内一弘が後任として監督就任。また、1981年オフにロッテから監督候補として挙がっていたが再任は見送られた。

監督辞任後はフジテレビ1979年 - 1981年)・ニッポン放送(1979年 - 1983年)、日本テレビ(1981年 - 1989年)で解説者を務めた。1978年に日本プロ野球名球会を設立し、1981年の株式会社改組後は代表取締役を務めた。

1988年野球殿堂入り。

第二次ロッテ監督時代[編集]


1989年10月27日ロッテの監督に復帰した。2期目の1年目は前田幸長小宮山悟の活躍もあったが、5位に終わる。4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得し、長年エースとして活躍した村田が引退。オフのドラフトで8球団の競合だった小池秀郎をくじ引きで交渉権を得るも、入団を拒否される。この入団拒否は、元々ロッテが小池の意中の球団でなかったことと、金田の選手育成方針や言動などに小池が不信感を持ったことが原因と言われている。

1991年は4年目の堀幸一がレギュラーに定着し、観客動員100万人を達成したが、前年ブレークしかけた伊良部秀輝が不振で、主砲のマイク・ディアズが骨折によりシーズン途中で離脱するなど、最下位に終わる。平井光親が首位打者を獲得。本拠地川崎球場の老朽化や観客動員低迷への抜本的打開策として、球団側は翌シーズンからの千葉県千葉市千葉マリンスタジアム(当時)移転を決めたため、川崎時代最後の監督となる。シーズン終了後の11月5日に辞意を表明した[25]。皮肉にも、引退勧告を行ったことがきっかけで第一次時代に監督を辞任するきっかけとなった当事者であった八木沢に追い落とされる形となってしまった。

監督退任後[編集]


2008年4月11日から13日までの巨人対ヤクルト戦は「川上哲治/金田正一シリーズ」(永久欠番シリーズ)として開催された。この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。

現在でも、金田の球歴を知る選手・OB・関係者にとっては畏れ多い存在である。2008年に金本知憲の2000本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れない様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には原辰徳監督が内海哲也に「あの方を知ってるか」と聞いたところ、「カネムラさん」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった[26]

2009年、金田が会長を務めていた名球会に対し、金田のワンマン運営であるという批判が上がった結果、金田は名球会の代表取締役を退任。名球会事務局も金田の個人マネジメントを行う「カネダ企画」から移転した。2010年に名球会は一般社団法人となったが、この改組に反対した金田は名球会から退会状態になっている事が報じられた[27]

2012年11月14日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)に36年ぶりに出演した[28]

2015年6月25日には『アウト×デラックス』(フジテレビ)に出演し、「自分のことやから言うけど34歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」と発言。さっそく自らを絶賛し、山里亮太から「ダルビッシュとどっちが凄いんですか?」と訊かれると、「それは無礼だよ」と言い、矢部浩之から「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えた[29]。歯に衣着せぬキャラクターでロッテ監督退団後も引き続きタレントとして活動していた。

2019年10月6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で死去[1][30]通夜告別式は近親者のみで営み、後日「お別れの会」を予定している[31]。86歳没。

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出典:Wikipedia
2019/10/16 23:30
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