金田正一
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2.経歴
2.1.プロ入り前
1933年愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)に生まれる[5]名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、名古屋電気学校旧制)を経て享栄商業高校へ編入[6]。この時点では14歳で、本来の就学年齢より1年早い高校入学となった[7]。但し、ロッテ監督時代の1990年に金田の担当記者であったスポーツニッポンの大西純一曰く、本人から「2歳サバを読んでいた」と話されたことがあると言い、仮にこの話が正しければ金田は1931年生まれで享栄商編入時には就学年齢に達していたことになる[8]。ちなみに、名古屋電気学校への在学中までは電気技師を志していたという。

享栄商では野球部長兼監督の芝茂夫と出会い、金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している[9]。同年の夏の甲子園に補欠で出場したが、登板機会はなかった。

2年次の1949年には、エースとして夏の甲子園県予選準決勝に進むが、瑞陵高徳永喜久夫に抑えられ完封負け。しかしコントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となる。

1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズ西垣徳雄監督にスカウトされた。同年夏も県予選準決勝に進むが一宮高に1-2で惜敗。この時のチームメートには一塁手高木公男、後にプロで同僚となる二塁手鵜飼勝助がいた。予選敗退後すぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団。

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出典:Wikipedia
2019/10/16 23:30
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