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京成電鉄
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3.歴史
3.4.成田空港乗り入れと経営危機から再建まで
1970年代に入ると、1969年の営団(現:東京メトロ)東西線西船橋延伸や1972年の総武本線東京 - 津田沼間複々線(総武快速線)開業といった競合路線の新設や輸送力の増強によって旅客を奪われるようになり、交通事業での収益を上げることが難しくなっていった。このため、収益源を兼業部門に求める傾向がますます強くなり、特に沿線を離れた東北北海道での土地買収・開発を押し進めていった。具体的には、常磐急行交通(1962年(昭和37年))での長距離バス進出(新橋 - 日立)、いわき貨物自動車(1962年系列化)・日本陸運(後の「みちのく急送」)に改称、1964年系列化)での陸送部門での関与、さらには南部縦貫鉄道へも資本参加している。

また、ニュータウン交通機関として新線建設を目的とした会社に相次いで出資した。北総開発鉄道(1972年(昭和47年)。現:北総鉄道)、千葉急行電鉄(1973年。1998年解散、現京成千原線を経営)、遅れて東葉高速鉄道(1981年(昭和56年))がそれである。そして、成田空港へのアクセスを目指して1968年(昭和43年)12月に新線免許を申請した。しかし、運輸省と新東京国際空港公団(ともに当時)が空港ターミナルビル地下への乗り入れを拒否した(当時予定されていた成田新幹線との兼ね合いもあった)。結局、第1・第2ターミナルビルの中間に駅を設置(空港通勤者の交通機関という位置付けとされた)することとなり、1970年(昭和45年)11月に着工、突貫工事により1972年11月には建設工事を終了し、1973年2月には習熟運転も始まった。しかし、反対運動による開港の延期(さらには初代AE車への放火)で6年あまり営業できない期間が続いた。都心側でも、京成上野駅の改良工事が1973年6月から1976年7月まで行われた[注釈 4]

こういった大型投資を繰り広げている最中にオイルショックに見舞われた。1977年(昭和52年)度決算ではついに無配に転落。空港新線が開業できなかったことも一因としてあるが、とりわけ積極的な土地投資が裏目に出て、土地評価額の下落と金利負担が経営を圧迫、ついには累積赤字が1980年(昭和55年)度上半期で133億円、1983年(昭和58年)度下半期で281億円に達した。この時、京成線の廃止までも検討していた。

1980年(昭和55年)10月に経営再建計画を策定、25%に上る人員削減といった徹底した合理化と系列百貨店閉鎖などの兼業整理、谷津遊園跡地や津田沼の車両工場などの資産処分を次々と行った。また、同年3月には日本民営鉄道協会からも脱退(再建後の1990年4月に復帰)し、春闘の賃上げ交渉も独自に行うなど、なりふり構わぬ経営再建を図った。このため、1980年代前半までは労働組合による単独のストライキが頻発することもあったが、傘下のオリエンタルランド東京ディズニーランドの招致に成功したことや、リストラ策が功を奏して経営が好転した。1988年(昭和63年)度上半期に12年ぶりの経常利益を計上[6]1989年度上半期には累積赤字を解消[7]。下半期には株式配当も復活し、ようやく経営危機からの復活を果たすこととなった[8]

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(3.3.戦後から高度経済成長期まで)
[6]次ページ
(3.5.再建から発展へ)
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出典:Wikipedia
2020/02/13 08:31
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