関東地方
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2.歴史
2.3.中世
平安末期の関東地方は、中小の武士団が割拠した。北関東は藤原北家流諸氏(那須諸氏宇都宮氏小田氏小山氏結城氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏新田氏佐竹氏)、南関東は桓武平氏流諸氏(鎌倉党三浦党秩父党千葉党など)や武蔵七党(小野姓横山党など)が領有した。彼らは相馬御厨など土地の支配権をめぐって相互に争った。源頼朝鎌倉幕府を樹立する際に中核となったのは、このような関東武士団であった。

関東の武士は承久の乱の後、地頭として西日本各地に移住する。三浦千葉渋谷二階堂葛西など、関東地方の地名に由来する苗字が九州のような遠方にも多数分布するのはこのためである。

南北朝時代には、室町幕府(源氏政権)の出仕機関である鎌倉府が同じく鎌倉に置かれ、鎌倉公方(源氏)を関東管領(主に藤原勧修寺家流)が補佐、さらに関東八屋形(藤原北家流6氏・源氏流1氏・平氏流1氏の計8氏)が各領土内での実権を有した。事実上、東国武家政権の伝統を引き、東日本を広く管轄した。

室町時代には、鎌倉公方は室町幕府(源氏)と対立し、これに、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった。その結果、大きな戦いだけでも、

上杉禅秀の乱:応永23年(1416年) - 応永24年(1417年)
永享の乱:永享10年(1438年) - 永享11年(1439年)
結城合戦:永享12年1440年 - 永享13年/嘉吉元年(1441年)
享徳の乱:享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日)
長享の乱:長享元年(1487年) - 永正2年(1505年)
と相次ぎ、小規模なものも含めれば、関東地方は連年続くことになった戦争によって荒廃した。一連の戦いによって関東管領・鎌倉公方(古河公方)をはじめ、関東の各氏は勢力が衰え、戦国時代にはこれに乗じた小田原北条氏(後北条氏=伊勢平氏を称す)が台頭し、関東各地を次々と支配下に置いた。対抗勢力としての上杉氏は河越夜戦に敗れた。

16世紀後期には小田原北条氏の勢力圏は関東地方の西半分をはじめ広範な地域におよび、それに対して東部地域では里見氏、佐竹氏、宇都宮氏がこれに抗し領土を守った。最終的に朝廷の意向を受けた豊臣秀吉が鎮圧に乗り出し、小田原征伐によって小田原北条氏は滅亡、同氏に従っていた千葉氏・小山氏などの旧家も運命をともにした。小田原北条氏の旧領には徳川氏が入り、後にそれがそのまま江戸幕府の勢力基盤として継承されたこと、小田原征伐で中央政権に服属して安堵を受けた里見氏、佐竹氏、宇都宮氏などもその後の中央政権の動向に巻き込まれてその後20年余りのうちに関東の領有権を没収されていったことから、この変動が生じた天正18年(1590年)を関東地方における中世と近世の画期として捉えられている。ただし、従来の支配体系が全否定された訳ではなく、小田原北条氏の拠点になった城の動向を見ても徳川氏の本拠となった江戸城小田原城川越城などのように近世以後も継承されたもの、箕輪城(→高崎城)、唐沢山城(→佐野城)、本佐倉城(→佐倉城)のように領国支配の安定に伴う新城築城まで用いられ続けたもの、八王子城鉢形城栗橋城のように廃城になったものなど様々であり、単純に天正18年を中世と近世の「断絶」とみなす考え方は、継承したものと断絶したものが混在していた地域の実情を見誤る危険性をはらんでいる[4]

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出典:Wikipedia
2019/09/14 00:33
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