宇野宗佑
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1.来歴・人物
1.4.閣僚として
1974年(昭和49年)11月に第2次田中角栄内閣第2次改造内閣で、防衛庁長官として初入閣した。宇野は防衛庁長官として、第十雄洋丸事件では海難事故で炎上した石油タンカーを撃沈する指令を出した[20]。この内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した[21]

1974年(昭和49年)12月に田中角栄に代わり、三木武夫自由民主党総裁に就任すると、自民党国会対策委員長に就任した。まもなくロッキード事件が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった[22]

1976年(昭和51年)に福田赳夫内閣科学技術庁長官に就任した。宇野は科学技術庁長官として、日米原子力交渉を担当、核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使ジェラルド・スミスらと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは宇野を「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した[23]

1978年(昭和53年)12月7日に自民党広報委員長に就任した。

1979年(昭和54年)に第2次大平内閣行政管理庁長官に就任した。行政管理庁長官として特殊法人1割削減を計画。その計画において、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否をする徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した[24]

1982年(昭和57年)の自由民主党総裁選で、出馬した中曽根康弘の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、自民党幹事長代理に就任し、1983年(昭和58年)1月の中曽根の訪韓に同伴。6月に山中貞則が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。中曽根退陣に伴い、竹下登を後継総裁に指名する中曽根の裁定文を幹事長代理として発表した。

1987年(昭和62年)に竹下内閣外務大臣に就任した。

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出典:Wikipedia
2019/11/09 21:00
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