火垂るの墓
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3.作品背景
『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しいの思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10ヶ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている[4]
また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない[5]
野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという[6]。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[7]。こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。なお、「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった[8]。また「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのも、妹への思いがあったからだという[8]
野坂は妹の恵子について次のように述べている。
一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。 ??野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」[5]
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(2.作品構成・文体)
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(4.あらすじ)

4. 朝日新聞デジタル - 「火垂るの墓、原点の地 野坂昭如さん過ごした防空壕確認」 編集委員・永井靖二 2016年12月2日10時05分
5. 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号に掲載)。のち『アドリブ自叙伝』(筑摩書房、1980年。日本図書センター、1994年と2012年に復刊)に所収
6. 野坂昭如「プレイボーイの子守唄」(婦人公論 1967年3月号に掲載)
7. 野坂昭如「五十歩の距離」(『野坂昭如エッセイ集1 日本土人の思想』)(中央公論社、1969年)
8. 野坂昭如『アドリブ自叙伝』(筑摩書房、1980年。日本図書センター、1994年と2012年に復刊)

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出典:Wikipedia
2018/04/21 01:30
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