安土桃山時代
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2.沿革
2.2.豊臣秀吉による天下統一
本能寺の変に対し、羽柴秀吉はいち早く京に駆け付け首謀者である明智光秀を破った(山崎の戦い)。これにより織田政権内での主導権を掌握した秀吉は清洲会議賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固め、天正11年(1583年)には大坂城の築城を開始する。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り[4]、天正18年(1590年)に日本国内の全国統一を達成した。全国各地で太閤検地を行い石高制度を導入した。[5]土地のデジタル化政策であったとされて田畑以外の農民の屋敷など村の規模が石高で測量されて豊臣時代に村制度が成立した。刀狩りの実施で寺社勢力や百姓農民を武装解除させて、豊臣政権の安定に力を注いだ。また、文禄元年(1592年)秀吉は、南蛮国(ポルトガルスペインなどカトリック教国)・伴天連国(英国和蘭などプロテスタント教国)のアジア侵略奴隷狩りに対抗するため、同盟or征服の天下布武の原則に従い、の万暦帝に同盟の親書を送るが日本通信使の殺害で返答したので、大明帝國への天下布武を決断し文禄・慶長の役にて、大陸遠征軍を西国大名を主力に計画実行した。対馬宋氏による朝鮮王の秀吉への服従を確認し大阪城に朝鮮王子を人質として迎え、朝鮮半島の無害通行権を得た。しかし朝鮮王は同時に大明帝國へも服従し援軍の要請していた。明征伐遠征軍の西国大名は鉄砲大筒など集団戦法ですでに天下布武の実行経験者であり、大陸での占領地は全て所領として恩賞が約束されていたので、連戦連勝であった。しかし進軍先の朝鮮・満州・沿海州・北京近郊は、農業には適さず狩猟地域で、農耕民族の西国大名には全く経済的魅力が無かったため、直ぐに厭戦気分が遠征軍に蔓延し、軍事力は占領した城地域にて大陸の風土民衆風俗経済など調査研究に向けられ、明帝国首都大都(北京)への進軍は全く行われなかった。この調査研究の結果、軍事物資・工芸品などの技術者達を見いだし、西国大名達は駐屯地で彼らを厚遇したため、役後、技術者の希望を受け入れ、各大名の所領での帰化を許した。文禄・慶長の役で明征伐の遠征軍に参加しなかった東国大名は勢力拡大に直結し、徳川家康の時代を迎えた。

一方、国内は天下統一による平和がもたらされたことから広域商業が発達し、諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、南蛮船(ポルトガル船)の種子島難破で鉄砲が西洋から伝来し、武器と奴隷を主力に南蛮貿易密貿易南蛮人・伴天連との交流が開始されて、最先端武器開発が日本各地で行われ、異人との貿易の主力が日本製鉄砲や火薬弾薬など武器になり、世界に輸出された。文禄・慶長の役での敗退で大明帝国は衰退し、従来の輸入品渡来銭(銅銭)に代わり、天正大判など国内独自の金貨銀貨が製造されて国内に広く流通した。[6]文禄・慶長の役の後、陶法・毛皮加工など大陸技術は、帰化を許された氏達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。

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(2.1.織田信長による政権の確立)
[6]次ページ
(2.3.豊臣時代の終結)
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出典:Wikipedia
2020/01/11 13:00
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