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ミハイル・レールモントフ
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1.生涯
1.7.最期
カフカースへの途上、1841年5月9日にモスクワを訪れたレールモントフは、この地で憲兵隊長アレクサンドル・ベンケンドルフに毒舌をふるった詩を8作完成させる。モスクワを発った後にスタヴロポリを訪れ、グラッベ将軍に面会し、町に滞在する許可を求める。その後彼は気の向くままに道を進んでいき、ピャチゴルスクで病に罹ったことを告げる手紙を上官に送り、連隊の特別委員会は彼にミネラーリヌィエ・ヴォードィでの治療を勧めた。スカビチェフスキーはレールモントフの最後のカフカースでの暮らしを「朝に著述を始めたレールモントフの手は夕方になってより一層忙しく動いており、彼はくつろいでいるようには思えなかった」と述べている。1週間前の7月8日、レールモントフは「自分に残されている時間はほとんどないと感じている」と友人のメリンスキーに告白した[7]

ピャチゴルスクでの生活は概ね楽しいものだったが、社会不適合者という悪名、プーシキンに次ぐ2番目の詩人という評価、『現代の英雄』の成功にうんざりしていた[22]。レールモントフはピャチゴルスクで士官学校時代の旧友ニコライ・マルトゥイノフと再会するが、彼がカフカースの服装や習慣を見せびらかすことを不快に思い、痛烈な皮肉を浴びせた[10]。1841年7月25日、マルトゥイノフは「無礼者」レールモントフに決闘を申し込む[22][31]

7月27日にピャチゴルスクのマシューク山麓で決闘が行われたが、この地はペチョーリンが旧友のグルシニツキーを殺害した場所だった。バラントとの決闘の時と同じようにレールモントフが空に向かって発砲した後、狙いを定めたマルトゥイノフはレールモントフの心臓を撃ち抜いた[30]。即死だった[32]。レールモントフが倒れ込んだ時に大きな雷鳴が起こり、介添人、友人、マルトゥイノフらその場に居合わせた人間はレールモントフを見捨てて逃げ去った[30]。決闘の日の夜、レールモントフの遺体は担架で運ばれた[33]。ピャチゴルスクの僧侶は政府の怒りを恐れて遺体の埋葬を拒否し、彼の住家の主人は祟りを恐れて祈祷を行ったという[34]

1842年1月にニコライ1世はレールモントフの棺をタルハーヌイに移す許可を発し、棺は家族の墓地に埋葬された。孫の死を知った祖母エリザベータは軽い脳卒中に罹り、1845年に没する。レールモントフの死後、彼が生前書き残していたノートブックの中から多くの詩が発掘された[35]

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出典:Wikipedia
2019/08/19 13:30
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