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ミナルディ
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5.エピソード
ミナルディにはF2時代より日本人の佐々木正マネージャー(通称:ササキーニ)が在籍していた。スクーデリア・イタリアとの合併後にミナルディを離脱し、その後は童夢のマネージャーとして童夢・F105のF1参戦プロジェクトに参加していた。一時は「童夢の車がミナルディで走るのでは」と噂になり、この噂に当時童夢側は激怒して、噂を報じた雑誌に抗議した。しかし後に佐々木は童夢公式サイトの連載コラムにおいて、バーニー・エクレストンの仲介により、2000年頃にオランダの投資家グループと共にミナルディ買収に動いたことを明かしている[8]
バブル景気下では日本企業が大小の規模でミナルディのスポンサーとなった。パイオニア(音響機器)の他にトキメック(計測器機)、カデット(講談社の雑誌)、中日新聞東京中日スポーツ)、OMMG(結婚相談所)、神奈川クリニック(形成外科)などがある。またミナルディでドライバーを務めた片山は日本たばこ産業マイルドセブン)、中野はエイベックスの個人スポンサーを持ち込んでいる。
"ミスター・ミナルディ"の奮闘
F2時代からミナルディのステアリングを握ったピエルルイジ・マルティニはその関係と活躍から「ミスター・ミナルディ」の異名をとった。実際にマルティニはそのキャリアにおいて、解雇と復帰を繰り返しながら[9]出走124戦中107戦・6シーズンをミナルディから出走しており、さらに残り16戦は1992年所属のスクーデリア・イタリアで後にミナルディと合併しているため、実質的には1戦除き全てミナルディから出走している[10]。このように関係は非常に深く、またそのキャリア内で多くのチーム記録や功績を残している。主な功績は以下の通り(前述の内容も含む。) チーム予選最高位:2位(1990年アメリカGP
チーム決勝最高位:4位(1991年サンマリノGP1991年ポルトガルGP
チーム年間成績最高位:7位(1991年)
1989年イギリスGP……入賞しなければ予備予選組に落ちる瀬戸際の中、チームメイトのサラとともに入賞しチームを救う
1991年ポルトガルGP……フェラーリのジャン・アレジに対し背後まで迫り、終盤まで追い回す
ミナルディのモーターホームで供される食事は非常に美味しいことで有名であった。特にパスタエスプレッソが絶品といわれており、他チームのドライバーやメディア関係者が食事目当てにしばしば遊びに来ていた。アイルトン・セナがパスタの常連客だったことは有名である。セナはこのパスタのお礼に現役最後の一年はミナルディから無給で参戦することを計画していた。また、ミナルディはこの食事を振る舞うために、他のチームよりも比較的大きく食材運搬などのためのコストを割いていると言われていた。そうした基本姿勢が縁になった訳では無いと言われているが、パスタ製造で世界有数の食品企業であるバリラ社の御曹司、パオロ・バリッラ(バリッラ自身はバリラ社の直接の支援は受けていない)がミナルディをドライブ(1989年-1990年参戦)していたこともある。
"Ferrarldi"が本家フェラーリを追い回す
1991年、フェラーリエンジンを搭載したミナルディ。第13戦ポルトガルGP決勝で3位を走っていたフェラーリのアレジを、フェラーリエンジンのミナルディ・通称"フェラルディ"を駆るマルティニが追い回すという展開が見られた。結局アレジがそのまま逃げ切り、表彰台は逃したがマルティニは4位でチェッカーを受けた。結局、これがF1でのミナルディのチーム史上最上位の成績だった。
自動タイヤ洗浄機開発
2000年イタリアGPで、自社開発した自動タイヤ洗浄機を発表。“SPEED WASH 2000”と銘打ち、他のチームに1台160万円で販売しようとした。しかし評判は「時間がかかる・うるさい・手洗いのほうが圧倒的に綺麗になる」という最悪三拍子で、結局1台も売れなかった。「そんなものを作る暇があるならマシンの開発をしろ」などと揶揄されたことは言うまでもない。ちなみに、2002年の同GPで改良版が発表された。
ストッダートの奮戦
また、同じくプライベーターF1チームであるジョーダンのオーナーであったエディ・ジョーダンとは対照的に、個人資産を削ってまでミナルディチームを参戦させ続けた。
シャンパンファイト
2002年開幕戦オーストラリアGP、地元でのF1デビューとなったマーク・ウェバーは決勝で5位入賞を果たし、ミナルディに3年ぶりのポイントをもたらした。オーストラリアは当時のチームオーナーであるポール・ストッダートの地元であったこともあり、正規の表彰式終了後にミナルディのスタッフはわざわざFIAに許可を取って表彰台に上り、シャンパンファイトを行った。
ポールポジション獲得
2003年第10戦フランスGP予選1回目のことであった。セッションの序盤は、雨で路面はウェット状態だったが徐々に乾いていき、後になればなるほど有利な状況となった。このセッションは獲得ポイントが多い順にアタックするものであり、最後にドライタイヤを履いてアタックした(つまりこの時点で最も獲得ポイントが少なかった)ミナルディのヨス・フェルスタッペンが暫定ポールポジションを獲得。暫定とはいえ、ミナルディにとって初の快挙だった。もうひとりのジャスティン・ウィルソンも2番手タイムをマークしたが、メカニックのミスで重量規定違反となりノータイム扱いだった。しかしこれは土曜予選の出走順を決めるためだけのものであり、結局決勝レースは指定席からのスタートとなった。
自慢の2シーターカー
ミナルディは世界各地で2シーターカーの乗車イベントを開いていた。2001年8月にイギリスで開かれた2シーターの模擬レースでは、元F1チャンピオンのナイジェル・マンセルが後ろにゲストを乗せ参加。自身のトレードマークである赤いゼッケン5のマシンを駆ったマンセルは、何とゴール寸前の車に追突。マシンが宙を舞う派手なクラッシュだったが、幸いケガ人はいなかった。マンセルらしいエピソードではあるが、ゲストは肝を冷やしたことだろう。ちなみにこのとき追突されたマシンをドライブしていたのはフェルナンド・アロンソで、レースの勝者はオーナーのストッダートだった。
後身による優勝
ミナルディの後身であるスクーデリア・トロ・ロッソは、ミナルディ最大の弱点であった資金問題を克服して、2008年にホーム・グランプリであるイタリアGPでポールトゥウィンで初勝利を飾った。このときのドライバーのセバスチャン・ベッテルは、2010年に史上最年少のF1世界チャンピオンとなった。
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(4.1.ミナルディ出身のF1優勝者)
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(6.記録)
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出典:Wikipedia
2020/01/03 07:00
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