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ミナルディ
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2.歴史
2.2.F1

1980年代[編集]


この年よりF1に進出。初年度はピエルルイジ・マルティニのみの1カー体制だった。ジャコモ・カリーリ設計によるM185シャーシに、開幕2戦はフォードエンジンを搭載し、第3戦サンマリノGPよりモトーリ・モデルニのV6ターボエンジンを投入した。
しかし、マシンの信頼性の低さやマルティニの経験不足からリタイヤが続き、初完走は第9戦ドイツGPでのことだった(11位)。その後も状況は好転せず、この年の完走は計3回に留まった(最高位:8位)。また予選でも例外なく下位に沈み、決勝進出が20位グリッドまでだった第4戦モナコGPでは予選落ちを喫している。 この年より2カー体制となるが、資金難から一旦マルティニを放出し、マールボロと強いコネクションを持つアンドレア・デ・チェザリスを起用しマールボロマネーにより資金不足を補なった[3]。もう一台にはアレッサンドロ・ナニーニを起用。前年の改良型であるM185Bで出走するも、この年もエンジンの信頼性が低く共にリタイヤを連発。前年同様、第4戦モナコGPでは揃って予選落ちを喫している。
第15戦メキシコGPにて、デ・チェザリス8位・ナニーニ14位でダブル完走を果たすが、結局各ドライバーともこれがシーズン唯一の完走となり、ポイントは獲得できなかった。
なおマシンは、デ・チェザリスが第9戦イギリスGPまでM185Bを使用し第10戦ドイツGPからM186を使用、ナニーニがシーズンを通してM185Bを使用した。 デ・チェザリスがブラバムに移籍したため、ナニーニがNo.1ドライバーに昇格、No.2にはスペイン人のエイドリアン・カンポスを起用。カンポスはスペインのジーンズメーカーをスポンサーとして持ち込んでのF1デビューであった。このシーズンのマシンはM187を投入。しかしこの年もモトーリ・モデルニ制のエンジンの信頼性が極めて低く、完走はナニーニが3回(11位が2回・16位が1回)、カンポスが1回(14位)に終わり、ダブル完走は1度もなかった。エースとして奮闘したナニーニはその走りが桜井淑敏ホンダ監督も「あの重そうなマシンでナニーニはよく頑張っている」と発言し、毎戦予選での走りを注目していたなど[4]F1関係者から認められており、表彰台の常連となりつつあったベネトンチームへの移籍が決定しミナルディを巣立っていった。 信頼性が一向に上がらなかったモトーリ・モデルニエンジンに見切りを付け、この年よりフォードコスワース自然吸気エンジンユーザーとなり、マシンは完全新設計のM188となった。この搭載エンジンの変更により完走率が高まった。ドライバーは共にスペイン人のカンポスとF1ルーキーのルイス・ペレス=サラであり、イタリア人ドライバーを起用せずにシーズンを開始した初の年となった。
順調に予選を通過していたペレス=サラに対し、カンポスはルーキーのサラに予選で全敗、第3戦モナコGPから3連続で予選落ちを喫するなど低調であり、第5戦カナダGPをもって解雇された。後任として第6戦デトロイトGPよりマルティニがチームに復帰。復帰初戦のデトロイトGPにて完走9台のサバイバルレースを生き残って6位入賞し、チームに初のポイントをもたらした。
その後の入賞は叶わず、第9戦ドイツGP・第11戦ベルギーGPでは揃っての予選落ちも味わったが、完走はペレス=サラ7回(最高位8位)、マルティニは10戦のみのエントリーにもかかわらず5回と、モトーリ・モデルニエンジン時代と比較し遥かに増加した。コンストラクターズランクは10位。この年から、徐々に成績が向上してゆくこととなる。 このシーズンからデザイナーがジャコモ・カリーリからアルド・コスタに代わった。新設計のM189シャーシにフォード・DFRエンジンを搭載。ドライバーは引き続きマルティニとペレス=サラを起用した。
開幕から共にリタイヤが続いたが、ポイントを獲得しなければ予備予選組に落とされるという状況の中、背水の陣で挑んだ第8戦イギリスGPにて、マルティニ5位、ペレス=サラ6位に入り、チーム初のダブル入賞を果たす。
マルティニはその後も第13戦ポルトガルGPで5位、最終戦オーストラリアGPで6位となり、計3度入賞。また、予選でも好位置につけるようになり、オーストラリアGPでは3位グリッドを獲得している。計6ポイントを獲得し、チームはランク10位となった。
また、モトーリ・モデルニがスバルと共同開発していた水平対向12気筒エンジンをテストしたが、重量が重くかつパワーも今一つで、最終的にミナルディは搭載を断った。このエンジンはのちにコローニに搭載されたが、1990年シーズンに一度も予備予選を通過できず、スバルは前半戦のみで撤退した。

1990年代[編集]


No.1にはマルティニが残留、No.2には前年の日本GPでマルティニの代役として出走したパオロ・バリッラが正式加入した。マシンは前年の改良型であるM189B(2戦まで)とM190(3戦から最終戦まで)を使用。開幕戦アメリカGPでは、ピレリタイヤが公道コースにマッチしたこともあり、マルティニが予選2位に入り、チームおよび自身初(結果的に唯一)のフロントローを記録。しかし決勝は7位に終わり、その後もポイントは獲得できなかった。
バリッラは予選落ちを連発し、特に第12戦イタリアGPから第14戦スペインGPまでは3連続予選落ちとなる。結局スペインGPをもって離脱し、終盤2戦はジャンニ・モルビデリが後任となるが、どちらもリタイヤに終わった。 F2時代の絆から15年目にして、フェラーリよりV12エンジンの供給を受ける。マシンはM191となり、タイヤはグッドイヤーに変更した。ドライバーは前年終盤から引き続き、マルティニとモルビデリ。モルビデリはフェラーリのテストドライバーも兼任しており、アラン・プロスト解雇に伴い、最終戦オーストラリアGPのみフェラーリから参戦したため、代役としてロベルト・モレノが出走した。
上位陣が総崩れとなった第3戦サンマリノGPにて、マルティニが4位に入賞。その後双方とも度々シングルフィニッシュを記録し、第13戦ポルトガルGPにて、マルティニが再び4位に入賞した。また、第15戦日本GPでは予選でマルティニが7位、モルビデリが8位につけ、四強の一角であったベネトン勢を共に上回った。決勝は共にリタイヤとなるが、一時はマルティニ5位、モルビデリが7位を走行している。
この年はチーム最高のコンストラクターズ7位を獲得したが、チームマネージャーであった佐々木正曰く、「エンジンの使用料がチームの財政を圧迫した」こともあり、フェラーリエンジンを1年で手放す事となる。また、前年終盤からスポンサーについており、大型支援を期待していたパイオニアが支援先をフェラーリに切り替えてしまうなど、資金面のつけが後々響くことになる。 残留したモルビデリと、前年の国際F3000チャンピオンであるクリスチャン・フィッティパルディを起用して参戦。マシンはランボルギーニV12エンジンに換装した前年の改良型M191B(3戦まで)とM191L(第4戦のみ)、M192(5戦から最終戦まで)となった。しかしフェラーリエンジンと比較するとランボルギーニのパワー不足は否めず、なかなか入賞に結びつかなかった、さらに第7戦フランスGP予選にて、フィッティパルディが脊髄にヒビが入る重傷を負い一時離脱。アレッサンドロ・ザナルディが代役となるが、予選落ち2回・リタイヤ1回と結果は残せなかった。
その後復帰したフィッティパルディは、第15戦日本GPにて6位入賞。これがこの年チーム唯一の入賞となった(ランキング11位)。また前年のフェラーリエンジン同様、ランボルギーニエンジンも1年で手放した。 マシンはフォードHBエンジンを搭載したM193となる。フィッティパルディとファブリツィオ・バルバッツァを起用して参戦。完走7台の開幕戦南アフリカGPにて、フィッティパルディが4位に入賞と、幸先の良いスタートを切る。その後はバルバッツァが6位2回、フィッティパルディが5位1回と、前半戦に計4度の入賞を記録した。
スポンサーマネーの支払い滞りから、バルバッツァは第7戦フランスGPをもって解雇され、第8戦イギリスGPよりマルティニがチームに復帰。しかし後半戦は各数回シングルフィニッシュを記録したが、入賞は出来なかった。また、第15戦日本GPから、フィッティパルディに代わり、持参金付きドライバーのジャン=マルク・グーノンを起用した(完走なし)。この年はランキング8位だった。
この頃より、参戦チーム数が減少の一途をたどるようになった。下位チームが次々と撤退・消滅していく中で、ミナルディ・チームの位置付けも、中堅から下位へと相対的に変化していった。 この年のドライバーは、マルティニと、ベテランのミケーレ・アルボレートを起用。リタイヤが多かったものの、マルティニが5位2回、アルボレートが6位1回を記録して計5ポイントを獲得。ランキング10位となった。ミナルディのF2初勝利(1981年)を獲得したことのあるアルボレートは、この年限りでF1から引退した。 マシンはM195となり無限ホンダエンジンの獲得を交渉していたが、リジェに奪われる結果となり、リジェと法廷闘争になるが、結局それまで通りフォードエンジンでの参戦となる。当初のドライバーはマルティニとルカ・バドエルだったが、第9戦ドイツGPよりペドロ・ラミーがマルティニに代わって参戦、長年ミナルディのステアリングを握ったマルティニは、そのままF1から引退することとなった。
ラミーが最終戦オーストラリアGPにて6位入賞、これによりチームはランク10位となる。またポイントは獲得出来なかったが、マルティニは最高位7位(2回)、バドエルは最高位8位を記録した。 スクーデリア・イタリアとの合併を解消。単独チームとして参戦するが資金難は深刻であり、マシンは前年改良型のM195Bで参戦となった。終盤にはベネトンのマネージャー、フラビオ・ブリアトーレが率いるコンソーシアムへ株式70%を売却。ブリアトーレはチーム代表に就任した。以降、ジャンカルロ・フィジケラに始まり、ミナルディはブリアトーレがマネージメントする新人ドライバーのF1デビューの場となった。
ラミーは全16戦に参戦し、井上隆智穂も参戦する予定だったがスポンサーの問題で参戦せず、結局もう1台はフィジケラ(8戦)、タルソ・マルケス(2戦)、ジョバンニ・ラバッジ(6戦)の3人がドライブした。最上位は、第8戦カナダGPにおけるフィジケラの8位だった。 このシーズンのマシンはM197となり、ハートV8エンジンを搭載。片山右京が全戦に参戦し、第7戦カナダGPまでは新人ヤルノ・トゥルーリがコンビを組んだ。カナダGPでプロストオリビエ・パニスが、両足骨折の重傷を負い離脱すると、トゥルーリはその代役としてプロストに引き抜かれ、以後はマルケスが最終戦ヨーロッパGPまで参戦した。しかしこのシーズンもマシンの戦闘力が低く、ノーポイントとなった。
ブリアトーレはF1参戦を図るブリティッシュ・アメリカン・タバコ (BAT) へチームを売却しようとしたが、ミナルディ側の反対で断念[1]。交流の有った日本のコンストラクター童夢とも売却交渉を続けていたが二転三転し、年末には自身の持ち株をフォンドメタル社のガブリエル・ルミへ手放し、ルミが新オーナーとなる。 マシンはM198となり、1993年に在籍していたグスタフ・ブルナーがテクニカルディレクターとして再加入。終盤にはプロストからディレクターのチェーザレ・フィオリオも加入した。マシンはフォードV10のカスタマーエンジンを搭載する。
ドライバーは右京がF1引退しチームを離脱。中野信治と契約交渉を行うが条件面で折り合わず決裂する。しかし偶然再会した中野とルミの直接交渉により誤解があった事が判明し無事契約に至った。エスティバン・トゥエロと共にフォーミュラ・ニッポン出身コンビとなるが、依然としてマシンの戦闘力が低く、カナダGPでの中野の7位が最高成績でこのシーズンもノーポイントに終わる。 ドライバーはマルク・ジェネと、フェラーリのテストドライバーを兼任するルカ・バドエルを起用。第2戦のみバドエルの代役としてステファン・サラザンがドライブした。この年、ブルナー作のM01は低予算ながらも戦闘力のあるマシンとして評価された。
第14戦ヨーロッパGPではバドエルが一時4位を走行。バドエルのリタイア後はジェネが6位入賞し、1995年以来のコンストラクターズポイントを獲得した。

2000年代[編集]


深刻な経営難のため、オーナーのルミはパンアメリカン・スポーツ・ネットワーク (PSN) へチームを売却しようとしたが失敗[1]。2001年になっても売却先が見つからず、チームスタッフも消滅を察知してかファエンツァを去り始めていた。そこへヨーロピアン航空社長のポール・ストッダートが救いの手を差し伸べ、2001年2月にようやく参戦継続が決定した。 ストッダートが新オーナーに就任し、チーム名を「ヨーロピアン・ミナルディ」、マシンの名称を自身のイニシャルにちなんだPS01と改め再出発を図る。ドライバー集めやマシン製作などに割く時間は限られていたが、短期間で開幕戦出場にこぎつけた。創始者のジャンカルロ・ミナルディは育成担当マネージャーとしてチームに残ったが、デザイナーのグスタフ・ブルナーは翌年よりF1参戦を控えていたトヨタにヘッドハントされた。
ドライバーは出戻りのタルソ・マルケスと、ブリアトーレがマネージメントを担当する新人フェルナンド・アロンソ。アロンソはしばしばベネトンを予選で上回り、決勝では追い掛け回すほどの走りを見せ、その後の活躍への片鱗を見せた。終盤2戦はマルケスに代わり、マレーシアの政府系スポンサーを持ち込んだアレックス・ユーンがドライブした。 開幕戦オーストラリアGPではウェバーがF1デビュー戦で5位入賞。ユーンも7位完走と幸先良いスタートを切った。しかし、ストッダート体制でも資金難は解消されず、それ以上のポイント獲得はならなかった。 アジアテックの撤退により、2年落ちのコスワース・CR-3を搭載。ドライバーはヨス・フェルスタッペンと元国際F3000王者のジャスティン・ウィルソン。ウィルソンがシーズン中にジャガーへ移籍すると、ドイツGP以降はニコラス・キエーサを起用した。また、金曜特別走行枠ではジャンマリア・ブルーニにドライブの機会を与えた。 イギリスGPではチームのスポーティング・ディレクターだったジョン・ウォルトンが急逝し、追悼のためにマシンからスポンサーロゴを外して出走した。一般的には、これを無断で行ったため、メインスポンサーのウィラックスが契約を打ち切ってしまい[5]、資金難に拍車がかかる結果と言われているが、後年のストッダートのインタビューによれば、ウィラックスはスポンサー料の支払いが遅れており、契約打ち切りの原因を作ったのは確かだが、遅かれ早かれ打ち切りになっていただろうと回想している[6]。 インディアナポリスで行われたアメリカGPは、ミシュランタイヤの耐久性が確保できないとして、ミシュラン勢が決勝レースを棄権。これによりブリヂストンユーザー3チーム(フェラーリ、ジョーダン、ミナルディ)の6台のみでレースを行い、ミナルディはアルバース、フリーザッハーの順で5、6位フィニッシュして計7ポイントを獲得した。これがシーズン中の全ポイントであり、ミナルディにとって最後の入賞記録となった。

チーム売却[編集]


ストッダートは2005年シーズン限りでミナルディを手放し、エナジードリンクメーカーのレッドブルへチームを売却することを決断。2005年9月10日のベルギーGP予選後に、同年11月1日よりレッドブルが全株式を取得することが発表された[7]。チームの本拠地は引き続きファエンツァに置かれるが、2006年からはレッドブル・レーシングのジュニアチームの「スクーデリア・トロ・ロッソ」として参戦することとなり、20年に渡るミナルディの歴史に幕を下ろすことになった。この買収の際、レッドブル社が買収行為を「デリバリーピザを頼むように気軽に」と発言した事により、同社はミナルディのサポーターから多大な反感を買った。

最後のレースとなった2005年の最終戦である中国GPまでに通算340戦参戦を果たした。これは当時の記録として、フェラーリ、マクラーレンロータスウィリアムズティレルブラバムに次ぐ、歴代7位となるものである。これらの他チームは少なくとも1勝を記録しているが、ミナルディは未勝利のまま参戦を終えた。

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出典:Wikipedia
2020/01/03 07:00
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