ホロコースト
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3.経緯
3.7.マダガスカル計画
1940年5月頃には外務省参事官フランツ・ラーデマッハーが西方ユダヤ人をマダガスカル島に送ることを提案した。この案は同年6月18日のヒトラーとムッソリーニとの会談で「マダガスカルにイスラエル国家を作ることも可能である」ということを述べているように、ヒトラーを含む上層部でも検討された。国家保安本部ゲシュタポでユダヤ人問題を担当するB4課長を務めたアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は戦争終結後に5年をかけて、ドイツ占領地域に住む600万人のユダヤ人をマダガスカルに送る計画に従事していた[58]

しかし6月24日になって、ハイドリヒは国外移送は不可能であり「最終的領域的解決」が必要であるという報告を行った[59]。ラーデマッハーは8月になって計画が正式に中止されたという報告を行っているが[60]、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある[66]。いずれにしても計画の断念後、「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従って、ユダヤ人の中で生産活動にとって無価値な老人・女子・子供は移送の後に殺害し、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。

ポーランド総督府はこれ以上のユダヤ人受け入れは不可能であると苦情を申し出たが、ヒトラーは「(総督領は)巨大なポーランド強制収容所でしかない」と拒絶した[62]。しかし1941年3月15日、ポーランドの親衛隊及び警察指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーは、これ以上総督領に対するユダヤ人の移送を行わないと伝達し、6月19日にはヒトラーは総督ハンス・フランクに対して「ユダヤ人は近いうちに総督領からいなくなる」と伝えている。これは3日後に勃発する独ソ戦の勝利によって、東方にユダヤ人を送る余地ができたということを示すものであった[62]

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(3.6.追放政策の実行と頓挫)
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(3.8.独ソ戦初期における組織的殺戮)
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出典:Wikipedia
2019/06/09 09:30
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