ペルー
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2.歴史
2.4.ペルー共和国

ペルー独立戦争[編集]


18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス革命以来のヨーロッパでの混乱を背景に、ナポレオン戦争によるヨーロッパでの政変により、スペイン本国にナポレオンフランス軍が侵入し、兄のジョゼフ・ボナパルトを国王ホセ1世として即位させると、それに反発する民衆の蜂起が起きスペイン独立戦争が始まった。インディアス植民地は偽王ホセ1世への忠誠を拒否した。そのような情勢の中で、シエラからマテオ・ガルシア・プマカワが蜂起し、しばらくシエラの主要部を占領したが(クスコの反乱)、結局プマカワも破れた。1821年7月28日にはるばるラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、ホセ・デ・サン・マルティンの指導の下に独立を宣言したが、副王政府は支配に固執し、シエラに逃れて抵抗を続けた。しかし、1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、アントニオ・ホセ・デ・スクレワマンガに攻め込んだアヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ (エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を撃破し、ペルーは外来勢力の二人の英雄に解放される形で事実上の独立を果たすことになった。しかし、それが直ちにインカ帝国や、インディヘナ、メスティーソ、奴隷として連れて来られた黒人といった人々の復権に繋がったわけではなかった。独立時の戦いにより農業も鉱業も荒廃しきっており、インカ帝国の最盛期に全土で1600万人を越えたと推測される人口は、1826年にはペルーだけで150万人になっており、うち14万8000人、人口の一割にすぎない白人が以降百数十年間以上ペルーの国政を動かしていくことになる。1828年、ペルーの事実上の支配者だったカウディーリョ、アグスティン・ガマーラは、ペルーをインカ帝国の後継国家だと考えて、旧インカ帝国の領土を回復するために、またペルーとボリビアの指導層が共に抱いていたお互いを統合しようとする動きから、ボリビア共和国(ボリーバルの共和国)として独立を果たしたアルト・ペルーを併合しようと軍を送ったが、スクレ大統領に打ち破られてしまった。しかし、ガマーラのこの試みはその後も続き、今度はグアヤキル(現エクアドル最大の港湾都市)を要求してコロンビア共和国に宣戦布告するが、これもコロンビアに帰国したスクレに打ち破られた。
1836年にボリビアのアンドレス・デ・サンタ・クルス大統領によってペルーは完全征服され、南ペルー共和国北ペルー共和国に分けられて、1836年10月にペルー・ボリビア連合の成立が宣言された。ガマーラをはじめとする亡命ペルー人はチリに亡命して、チリ政府とアルゼンチンフアン・マヌエル・デ・ロサスの力を得て軍を動かし、サンタ・クルスを破ると1839年にこの連合は崩壊した(連合戦争、ペルー・ボリビア戦争とも)。再び独立したペルーはガマーラが大統領となった。1841年、再びボリビア併合を望んだガマーラは侵攻軍を率いてボリビアに向かうが、ボリビア軍によって撃退され、インガビの戦いでガマーラ自身も戦死すると、翌1842年にプーノで講和条約が結ばれ、以後両国の統一を望む運動はなくなった。
1845年にラモン・カスティーリャが政権に就くと、この時代に強権によって政治は安定し、肥料に適していた海岸部のグアノ(海鳥の糞からなる硝石資源)や、コスタでの綿花やサトウキビが主要輸出品となってペルー経済を支え、グアノから生み出された富によって鉄道や電信などが敷設され、この時期にリマでペルー独自の文化としてのクリオーヨ文化が育った。また、軍隊の整備も進んだ。
1854年に奴隷制が廃止され、黒人奴隷が解放されると、ペルーの指導層はコスタでのプランテーションで働く労働力を移民に求め、中国人が導入された。苦力(クーリー)として導入された中国人の数は1850年から1880年の間に10万人を越えた。1858年、エクアドル・ペルー戦争(1858年 - 1860年)。1866年にスペイン軍が南米再征服を図って侵攻したが、ペルーはこれをカヤオでの戦いで撃退した(チンチャ諸島戦争)。

太平洋戦争[編集]


1879年4月3日にはそれまで問題になっていたアントファガスタチリ硝石鉱山を巡って、同盟国ボリビアと共に チリ に宣戦布告され、三国で太平洋戦争を争った。ペルー兵は勇敢に戦ったが、制海権を握ったチリ軍にリマを占領されて敗北し、アリカタクナをチリに割譲することとなった。同時にこの頃には貴重な資源であったグアノの鉱山も荒廃してしまった。
太平洋戦争後、ペルーは債務不履行に近い状態に付け込まれ、19世紀には豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国英国の経済支配が進むが、同時にそれまで全く省みられることのなかったシエラのインディヘナの文化に、ペルー性を求める言説が生まれるようになった。 太平洋戦争が終わった後もペルーの政治は原則としては軍人統治だったが、1895年に文民のニコラス・デ・ピエロラが政権を握り、ペルーは「貴族共和国」時代を迎えた。これ以降ペルーでも文民が政治を握るようになったのである。1908年には寡頭支配層の分裂の間隙をぬってアウグスト・レギーア政権が誕生。20年にわたる独裁を敷いた。1919年から11年間続く第二次レギーア時代に交通が充実し、結果的にシエラがペルー国家に統合されることになる。その一方で帝国主義や白人支配に反発してビクトル・ラウル・アヤ・デ・ラ・トーレによって、1924年に亡命先のメキシコで「アメリカ人民革命同盟」(アプラ党)が設立された。また、ホセ・マリアテギらのインディヘナ知識人層によってインディヘニスモ運動が盛んになるのもこの頃である。1920年代にはアヤ・デ・ラ・トーレがアメリカ人民革命同盟による政権奪取を狙ったが軍部に阻まれ失敗。それ以降アプラ党は国民主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれた。1929年にはタクナがチリから返還されたが、アリカの返還は行われず、これはペルー国民に強い不満を与えた。
世界恐慌後、経済を輸出依存していたペルーは急激に不安定になった。政治面ではレギーアが失脚して軍部とアプラの対立が続き、1931年の選挙でアプラ党のアヤを破った軍人のサンチェス・セロ大統領は、ポプリスモ的な政治を始めた。セロは1932年にペルー人の過激派から始まったレティシア占領運動に乗じて、コロンビアからレティシアを奪おうとしコロンビア・ペルー戦争を引き起こすが、この企ては失敗した。サンチェス・セロの暗殺後、ペルー議会はオスカル・ベナビデス将軍を臨時大統領に選んだ。ベナビデスはコロンビアとの戦争を収め、アプラ党との協調を計ったが、アプラ党によるテロが激化した。任期が終わる1936年の選挙でアプラを含む左翼が勝利すると、ベナビデスは選挙を無効化して任期を3年間延長し、経済の好転も手伝って1939年までの任期を無事に終えた。
1939年にマヌエル・プラードが大統領になると、ペルーは連合国側で第二次世界大戦に参戦し、敵性国民となった日系ペルー人は弾圧された。既に1940年5月13日にはリマで排日暴動が起きていたが、太平洋戦争が始まるとアメリカ合衆国に連行されるものも出た。ペルーは直接第二次世界大戦には兵を送らなかったが、1941年7月5日にエクアドルと国境紛争(エクアドル・ペルー戦争)を行い、エクアドル軍に勝利した後、アメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国の支持の下に、係争地のうちの25万km?を翌1942年のリオ・デ・ジャネイロ条約で獲得した。このことはその後のエクアドルとの関係に強い緊張を生むことになった。
1945年のブスタマンテ政権はアプラ党に対処する力を持たず、1948年のアプラ党と海軍によるクーデターによって崩壊し、マヌエル・オドリーア将軍が政権に就いた。オドリーア将軍はアルゼンチンのフアン・ペロンのような貧困層の支持により、寡頭支配層と戦うという政治スタイルをとったが、これも挫折し、1956年の選挙で第二次マヌエル・プラード政権が誕生した。この選挙でアプラ党は合法化を条件にプラードを支持し、以降アプラはペルーの支配層の側に回った。
このような保守支配層との協調を嫌ったアプラ党の左派が、当時起きていたキューバ革命の影響を受けて国内左派過激派と合流し、クスコ周辺で革命的武装蜂起を行うが、まもなく軍の掃討作戦によって殲滅された。

第一次ベラウンデ政権[編集]


1962年、アプラ党による選挙不正に抗議するために決起した軍事クーデターは、ペレス・ゴドイ将軍を首班にして、農地改革法などを施行した。現在、ペルーではこのクーデターがペルー史の一大転換点であったとされている。選挙監視内閣だったゴドイ政権は1963年の選挙が終わり、人民行動党のベラウンデ・テリー政権(First Presidency of Fernando Bela?nde (1963-1968))が軍部の支援で誕生すると解散した。穏健的改良主義者だったベラウンデは軍部の意向を反映して農地改革などを行ったが、ベラウンデはすぐに改革を放棄すると、農村問題とIPC(インターナショナル石油)問題でつまずき、IPCとの間にタララで結ばれたタララ協定(El Acta de Talara)で発覚したスキャンダルが国民の強い不満を引き起こした。

ペルー革命[編集]


こうした状況の中で1968年10月3日、フアン・ベラスコ・アルバラード将軍による軍事クーデター(Gobierno Revolucionario de las Fuerzas Armadas)によりベラウンデは失脚した。クーデターを起こしたベラスコ将軍は、これまでの軍事政権とは打って変わって反米と自主独立を旗印に「ペルー革命」を推進することを約束し、独自の「軍事革命路線」によって外国資本の国有化や第三世界外交が展開された。貧しい生まれだったベラスコ将軍はかつてトゥパク・アマルー2世が掲げた標語を再び掲げ、革命後すぐに司法改革がなされた。農地改革が推進されてコスタの大農園は次々に解体されて多くの土地が小作人に分与され、「40家族支配」体制と呼ばれていたペルーの伝統的な地主寡頭支配層の解体が行われた。それまでアメリカ合衆国一辺倒だった外交が、第三世界を中心に多角化され、キューバやチリ(同時期にチリで似たような改革を進めていたチリ人民連合サルバドール・アジェンデ大統領は、ベラスコを「同志」と呼んだ)といった域内の左派政権との関係改善が行われ、兵器輸入を中心にソ連との関係も深まった。日本との交流が深まるのもこの頃である。
また、将軍は先住民をカンペシーノ(農民)と呼ぶようにし、以後政府の文書で侮蔑的な響きのあったインディオという言葉が使われることはなくなった。 任期の最後の年にはケチュア語公用語となったが、軍部主導で国民の広範な支持を得られなかった革命は、ポプリスモ的な分配による対外債務の増加、軍部とアプラ系の労組との衝突や、人民の組織化の失敗などもある中で、将軍は自身の体調の悪化と経済政策の失敗により、将軍の失脚をもって1975年に終焉した。
1975年、軍部内右派と左派の妥協により、軍内中道派のモラレス・ベルムデスが大統領となった(Gobierno de Francisco Morales Berm?dez)。モラレスは「革命の第二段階」を称していたが、1976年5月には事実上のIMF管理下に置かれるなど革命からの後退が続き、国民の反軍感情の高まりの中、軍は名誉ある撤退を掲げて1978年6月には制憲議会が開かれ、軍部とアプラ党の歴史的な和解の中で、非識字層に投票権を認めた1979年憲法が制定された。
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(2.5.ゲリラ戦争と現代のペルー)
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出典:Wikipedia
2017/10/31 09:30
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