プロヴディフ
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3.歴史
3.2.中世
スラヴ人は6世紀中葉ごろにこの地域に住み着き、地域の民族構成を一変させた[21]681年第一次ブルガリア帝国が建国されると、フィリッポポリスは東ローマ帝国の最前線を守る重要な要塞となった。812年にブルガリア帝国のクルム・ハーンによって征服されたが、完全にブルガリア帝国の領域に組み込まれたのは834年のマラミル・ハーンの時代であった[22]。その後、ブルガリアの統治下に留まったのはわずかのことであり、855年-856年に東ローマによって再征服された[23][24]。東ローマ帝国の統治下で、帝国の東部国境から持ち込まれたパウロ派(Paulician)が広まり、その一大拠点となった。フィリッポポリスでは、二元論の影響が広まってボゴミル派が形成される土壌が作り上げられた。ブルガリアのシメオン1世(893年-927年)の時代に、この街をはじめとする東ローマのバルカン半島の領地はほぼ全てブルガリアの手に落ちた。シメオンの息子・ペタル1世(927年-969年)の時代まで、この地はブルガリア帝国の統治下に留まった[25][26]

970年、東ローマと一時的な同盟関係の下にあったペタルは、北方から侵入するスヴャトスラフ1世と対峙していたが、ペタル指揮下の東ローマ軍はこの地で、スラブ人などによって構成されるスヴャトスラフの軍の前に壊走した[27]。その後ブルガリアは弱体化し、この地は再び東ローマの手に落ちた。街は再びフィリッポポリスと呼ばれるようになり、東ローマ的特徴を強めていった。

Aime de Varennesは1180年にこの街で、1300年前のアレクサンドロス大王とその後継者たちの業績を物語る東ローマの歌唱に出会っている[28]。1204年には東ローマに代わってラテン帝国がこの地の支配者となったが、ブルガリア帝国のカロヤン・アセンが死去する1207年までの間、2度にわたって短期的にカロヤンによって占領された[29]。1208年、カロヤンの後継者ボリルは、プロヴディフの戦いにてラテン帝国に敗北している[30]。ラテン帝国の統治下では、プロヴディフはフィリッポポリス公国(Duchy of Philippopolis)の首都となり、公国はルニエ・ド・トリ(Renier de Trit)、次いでジェラール・ド・ストラン(Gerard de Strem)によって治められた。ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の下、1225年から1229年までの間、再びブルガリア統治下となった。1263年、プロヴディフは東ローマ帝国に征服され、再びその統治下となった。その後、ゲオルギ2世テルテルによって征服される1322年までの間、東ローマの統治下に服した[31]。1323年には再び東ローマの統治下となるが、ブルガリアのイヴァン・アレクサンダルが、ヨハネス6世カンタクゼノスの側について東ローマの皇帝内乱に介入し、その見返りとして1344年にはプロヴディフと他の8つの都市がブルガリアに与えられた[32]

1364年に、ララ・シャヒン・パシャ引きいるオスマン帝国軍は、プロヴディフを制圧した[33][34]。トルコ人たちは街を「フィリベ」と呼んだ。1382年にオスマン帝国がソフィアを征服するまでの間、この地がオスマン帝国領ルメリアの中心地となった。プロヴディフはその後も、ブルガリア人の文化・伝統の拠点として生き続けた。「プロヴディフ」の呼称が初めて登場するのはこの頃であり、トラキア語での呼称「プルプ=デヴァ」(プルプはピリッポス、デヴァは街を意味した)に由来している。はじめスラヴ人たちはこの街を「プルディン」(Пълдин / P?ldin)あるいは「プルヴディン」(Плъвдин / Pl?vdin)と呼んでいた。

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出典:Wikipedia
2019/08/25 21:00
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