プラハの春
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2.改革運動の展開
2.1.人間の顔をした社会主義
1968年1月5日チェコスロバキア共産党中央委員会総会において、スロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクがノヴォトニーに代わって、チェコスロバキア共産党第一書記に就任した。

ドゥプチェク体制の始動[編集]


1月総会の結果、事実上、検閲が廃止されたこともあり、ノヴォトニー体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まった。2月には、国防省の幹部で、ノヴォトニーと懇意にあったヤン・シェイナ将軍がアメリカ亡命する事件が起きた。彼は公金の不正流用疑惑で捜査対象となっていたが、同時に12月末から1月初めにかけて、ミロスラフ・マムラ将軍などと共謀し、ノヴォトニーの権力維持を目的とするクーデターを企てていたことが発覚した。この事件は、マスコミにとって格好の話題となり、その論調の矛先は、大統領職に留まっていたノヴォトニーに向かった。また3月にはいると、ノヴォトニー体制を支えてきた党や政府幹部も相次いでその職を去っていった。たとえば、内相ヤン・クドルナや検事総長ヤン・バルトシュカの辞任は、ソ連(特にKGB)との関係が深い治安機構を管轄する部署にも改革の波が押し寄せたことを知らしめた。そしてついに3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任し、第二次世界大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出された。

「行動綱領」の採択[編集]


4月の党中央委員会総会で『行動綱領』が採択された。この文書は「新しい社会主義モデル」を提起し、

粛清犠牲者の名誉回復
連邦制導入を軸とした「スロヴァキア問題」の解決
企業責任の拡大や市場機能の導入などの経済改革
言論や芸術活動の自由化
外交政策でもソ連との同盟関係を強調しつつも、科学技術の導入を通した西側との経済関係の強化
が盛り込まれた。

またオルドジフ・チェルニークを首班とする新内閣が発足した。副首相として、計画経済の改革を主張する経済学者のオタ・シクや、1950年代に「ブルジョワ民族主義」の罪で終身刑を宣告され、公的生活から追放されていたグスターフ・フサークが入閣した。国民議会議長には、国民の間で人気のあったヨゼフ・スムルコフスキーが、国民戦線議長にフランチシェク・クリーゲルが就任し、党および政府の主要ポストを改革派が占めた。

『行動綱領』の採択を受けて、改革運動は社会全体に浸透していった。労働組合、青年組織、社会民主党やKAN, K-231などの非共産系政治組織の動きが活発になった。それと同時に、改革の内容をめぐる認識の相違が顕在化し始めつつあった。改革運動の急進化に懸念を抱く勢力が形成され、ソ連などと接触を図るようになったり、スロバキアでは民主化よりも連邦化を重視する動きがあり、改革に対する認識が必ずしも一枚岩ではなかった。

改革運動の浸透と5月総会[編集]


6月に予定されていたワルシャワ条約機構軍のチェコスロバキア領内における合同軍事演習に向けたソ連軍が到着するなか、5月末に開催された党中央委員会総会は、同盟諸国の懸念に配慮する形で、右派修正主義の危険性を強調し、国民戦線の枠外における政治組織を「反共活動」とみなした。これによって党の指導的役割を堅持する態度を明らかにした。他方で第14回党大会を前倒しして9月に開催することを決定したことは、改革路線の継続を印象付けた。なぜならば、臨時党大会で改革に危惧を抱く多くの中央委員や党員が再任されないことが予想されたためであり、党大会が成功すれば、改革勢力の基盤は磐石となり、不可逆的なものとなるからであった。

二千語宣言[編集]


6月27日ルドヴィーク・ヴァツリークが起草した『二千語宣言』が主要な新聞紙上に掲載された。その内容は『行動綱領』のそれと変わらなかったが、ソ連などは「反革命」の兆候であると受け取った。

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出典:Wikipedia
2019/12/29 12:30
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