ブルガリア正教会
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4.歴史
4.4.オフリド大主教区
972年4月5日、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)皇帝ヨハネス1世ツィミスケス(イオアンニス1世ツィミスキス)はプレスラフを攻略して焼き払い、ブルガリアのツァールボリス2世を捕えた。ダミアン総主教は、当初は西ブルガリアのスレデツ(ソフィア)に逃亡した。続く時代、ブルガリア総主教の居住地はコミトプリ(Comitopuli)と呼ばれる君主制支配とビザンティン帝国の間の戦争の展開に密接に影響を受けた。総主教ゲルマンは断続的に、モグレン、ヴォデン(エデッサ、現北部ギリシャ)、プレスパ(現マケドニア共和国南部)に居住した。990年頃、次代の総主教フィリップはオフリド(現マケドニア共和国南西部)に居住地を移し、ここが総主教の座所となった。

1018年、ブルガリアがビザンティン帝国の支配下に服すると、ヴァシリオス2世(バシレイオス2世)ブルガロクトノス(「ブルガリア人殺し」を意味する異名)はブルガリア正教会の独立正教会位を承認した。特別条例(royal decrees)により、帝国政府はブルガリア正教会の領域・教区・財産・特権を認めるとした。ブルガリア教会は総主教位を剥奪され、大主教区に格下げされた。最初の大主教イオアンはブルガリア人であったが、後継者達およびその後の全ての高位聖職者達は例外なくギリシャ人に占められた。しかしながら修道士や普通の司祭は依然として主にブルガリア人であった。大半において大主教区は民族的性格を維持し、スラヴ語奉神礼を保持し、ブルガリア文学の発展に貢献し続けた。オフリド大主教区独立正教会位は、ビザンティン時代、ブルガリア時代、セルビア時代、オスマン帝国時代の間、尊重され続け、1767年の不法な廃止まで存続した。

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(4.3.独立正教会位の獲得 (総主教庁))
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(4.5.タルノヴォ総主教庁)
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出典:Wikipedia
2019/02/28 18:30
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