フレッド・ブラッシー
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1.来歴
1.1.日本での活躍
1962年4月、日本プロレスの第4回ワールド大リーグ戦に初来日。前月にロサンゼルスにて力道山に奪われたWWA世界ヘビー級王座のリターンマッチとして、4月23日に東京都体育館にて力道山に挑戦したが奪還に失敗している[31]。シリーズ中、4月27日の神戸大会にて行われた6人タッグマッチでは、グレート東郷を噛みつき攻撃で大流血に追い込み、そのシーンをテレビの生中継で観た11人の老人がショック死するという事件が起こり、当時の日本テレビのプロデューサーが国会に呼び出される事態となった[32]。この来日時にはヤスリで前歯を研ぐパフォーマンスが注目を集めたが、実際に使われたのは女性の爪研ぎに用いられる目の細かい柔軟なヤスリであり、研いでいた歯も差し歯であったという[16]。なお、ミスター高橋は「医学的な検証がなされていないことだけは確実」とショック死を否定している[33]。後のインタビューでブラッシーは「たった11人か。俺は100人殺す予定だったんだ!」とヒールを貫いたが、内心ショック死事件に心を痛めていたブラッシーはカメラの前を離れた時そっと死者に対して黙礼していた[33]

日本プロレスのワールド・リーグ戦には1965年1968年にも出場しており、1965年の第7回大会では豊登と決勝を争った[34](この来日時、後に妻となるモロズミ・ミヤコと出会っている[35])。1968年の第10回大会では5月16日に大阪府立体育館にてターザン・タイラーと組み、BI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦した[36]。その後も1969年1971年にも日本プロレスに参戦、1969年7月3日には蔵前国技館にてジャイアント馬場インターナショナル・ヘビー級王座に、1971年5月31日には札幌中島スポーツセンターにてアントニオ猪木ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座にそれぞれ挑戦している[37][38]

1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに来日。10月21日の前夜祭では大熊元司に反則負けを喫し、翌22日の旗揚げ第1戦ではダッチ・サベージと組んで大熊&マシオ駒と対戦した[39]。全日本プロレスには1973年10月の旗揚げ1周年シリーズにも参戦、日本プロレス崩壊後に移籍してきた大木金太郎とも対戦している[40]

1974年8月には新日本プロレスニコライ・ボルコフのプレイング・マネージャーとして初登場[41]。すでにセミリタイアの状態ながら試合にも出場し、アントニオ猪木や坂口征二とのシングルマッチも行われた[42]1976年6月には、猪木との異種格闘技戦を行ったモハメド・アリのスペシャル・アドバイザーとして来日している[43]。以降、1978年6月にピーター・メイビア1979年4月にスタン・ハンセン1980年5月にハルク・ホーガン1982年7月にアドリアン・アドニスなど、WWFでマネージャーを務めていた選手に同行して新日本プロレスに度々登場した。1978年の来日時にはWWFで敵対関係にあったペドロ・モラレスヘイスタック・カルホーンも同時参加していたが、本国ではベビーフェイスの彼らも、この時はブラッシーをマネージャーに付けてヒールを演じた[44]

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(2.マネージャーとしてのブラッシー)
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出典:Wikipedia
2019/04/04 11:00
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