フランツ・カフカ
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1.生涯
1.3.大学時代
1901年7月、ギムナジウムを卒業したカフカは北海へ卒業旅行へ行き、叔父ジークフリートとともにノルデルナイ島に数週間滞在した。この年の秋、プラハ大学に入学。当初は哲学専攻を希望していたが、父ヘルマンから「失業者志望」と冷笑され、ベルクマン、ポラックとともに化学を専攻した。しかし実験中心の授業はカフカの性に合わず、父の希望でもあった法学専攻へと早々に切り替えている。ベルクマン、ポラックも間もなく哲学、美術史へとそれぞれ専攻を変えていった。もっとも法学の無味乾燥な講義もカフカの気に入らず、1902年の夏学期には美術史とドイツ文学の講義を受けた。さらにドイツ文学を研究するためミュンヘン大学への移籍も計画していたが、結局実現には至らず法学の勉強に戻っている。

学期中はしばしばドイツ語、チェコ語の演劇を見に出かけた。また学期が始まってすぐに学生組織「プラハ・ドイツ学生の読書・談話ホール」(以下「談話ホール」)に入会しており、この組織の主催する朗読会、講演会にもよく参加した。「談話ホール」は450人の会員ほぼすべてがユダヤ人で、このとき学生委員会の委員長をカフカの又従兄弟にあたるブルーノ・カフカが務めていたが、カフカは彼との交流の跡は残していない。1902年10月、「談話ホール」を通じて、のちにカフカの文学活動に対し大きな役割を担うことになるマックス・ブロートと知り合う。ブロートはカフカより1歳年下であったが、当時すでに新進作家として名を成していた。ブロートは談話ホールの主催で「ショーペンハウアー哲学の運命と未来」と題する講演を行い、この際にニーチェを詐欺師と呼んだことに対しカフカが反駁したことが最初の出会いであった[26]。またこの時期ポラックを介してフランツ・ブレンターノの哲学を信奉するサークルに加わった。サークルにはベルクマンやブロートも加わっていたが、カフカはその会合にはそれほど熱心ではなかった[27]1904年秋にはブロートから盲目の作家オスカー・バウム、哲学生フェーリクス・ヴェルチュを紹介され、週末に4人で集まって自作の原稿を読み合うようになった。このころカフカはフローベールトーマス・マンホーフマンスタールなどに愛着を抱くようになっており、特にフローベールはその後長い間カフカの愛読する作家となった[28]

学期間の休暇には前述の叔父ジークフリートのもとを訪れ、田舎の生活を楽しんだ。ジークフリートは当時オーストリア=ハンガリー帝国内で5000台程度しか登録されていなかったオートバイを所有しており、大学生のカフカもしばしばこれを乗り回していた。大学時代の後半からは試験の疲れを癒すため、各地のサナトリウムに滞在するようになった[29]

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(1.2.初等学校、ギムナジウム時代)
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(1.4.就職、保険局員へ)
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出典:Wikipedia
2019/04/07 22:30
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