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ビートたけし
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2.来歴
2.2.大学時代
1965年に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし大学での生活には適応できず、五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、東京都新宿区の界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。「LeftyCandy」や「新宿ACB(アシベ)」、名曲喫茶「風月堂」などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。東京都新宿区にあるジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二小水一男らと知り合う。また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。ヴィレッジヴァンガードで、遅番のボーイとして働いていた時は永山則夫が早番のボーイとして働いていた。「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったとのこと[注 4]

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧だった。ジャズ喫茶のボーイ[7]以外に、菓子の計り売り[7]、実演販売員[7]、ビルの解体工[7]クラブのボーイ[7]東京国際空港での荷卸し[7]、タクシー運転手[7]、ガソリンスタンド店員[7]を転々とする。東京国際空港の荷役作業ではジャズ喫茶の常連客だった中上健次が先輩におり、共にガルーダ・インドネシア航空の荷役として働いていた[8]。後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演したり[注 5]、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていた。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍になった。その後、2004年9月7日には明治大学より「特別卒業認定証」(明治大学独自の制度であり、法的な大学卒業とは異なる)[注 6]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受賞。

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(2.1.高校時代まで)
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(2.3.前座時代)
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出典:Wikipedia
2020/02/15 23:34
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