サービス終了のお知らせ
バイエルン王国
▼人気記事ランキング
2.王国の成立
1805年にプレスブルクの和約によってフランス帝国の同盟者であったバイエルン選帝侯マクシミリアン4世オーストリアからティロル割譲される。しかし、ティロル人はこの決定を良しとせず、反乱に遭う。同年4月13日にティロル伯領の首府インスブルックの守備隊を降伏させて鎮圧の足がかりを得て、失敗を重ねながらも11月10日にインスブルックを占領。1806年、近隣の領土を併合した上でナポレオンによって王国に昇格され、マクシミリアン4世はバイエルン王マクシミリアン1世を名乗り、ライン同盟の一員となった。ライン同盟の成立により、神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位および帝国の解散を宣言する。これにより、名目上はバイエルンは独立国となる。元々バイエルンは対オーストリアのためにフランスと同盟することが多かったが、マクシミリアン1世は娘アウグステとナポレオンの継子ウジェーヌ・ド・ボアルネを結婚させ、結びつきを強めている。1808年に短い憲法を制定した。

1810年2月28日、フランスとパリ条約を結んだ。これによりオーストリアが放棄した旧ザルツブルク大司教領・ベルヒテスガーデン・イン地区・ハウスルック地区を獲得した。その他にバイロイト辺境伯領[2]レーゲンスブルク[3]をそれぞれ80万グルデンと310万グルデンでフランスから購入した。ナポレオン・ボナパルトはティロル反乱の原因をバイエルンによる統治に問題があるとし、バイエルンは南ティロルイタリア王国に、東ティロルイリュリア州に譲渡させられた。

1813年10月8日リート条約を結び対仏大同盟に参加した。前日にはマックス=ヨーゼフ・ペムゼルマクシミリアン・フォン・モンジュラカール・フィリップ・フォン・ヴレーデの3人がボーゲンハウゼン(天文台がある)に位置するモンジュラの別荘に集まり協議していた。マックスが強く反対していたが、ヴレーデ・モンジュラの2人が押し切った。この条約では、オーストリアはバイエルンの主権と領土の保全を保障し、バイエルンが自ら領土を引き渡すときには完全補償することを約束した。15日、バイエルン軍とオーストリア軍は合流してヴレーデの指揮下に入った。

1814年、自転車操業に陥っていた王国が春にデフォルトしてしまい、救世主のゼーリヒマンがアイヒタール男爵となった。ウィーン会議でバイエルン領は画定せず、オーストリアと直接交渉した。1815年にプファルツの一部を回収してドイツ連邦に参加した。領土は1816年4月のミュンヘン条約で画定した。ミュンヘン条約締結のきっかけは、両国がオーストリア皇后マリア・ルドヴィカの死をきっかけに対立関係の解消を企図したことである。11月、オーストリア皇帝フランツ1世はマクシミリアン1世の娘カロリーネ・アウグステと結婚した。1817年、教皇庁と政教協約を締結し王国の司教区を再編成した[4]

[4]前ページ
(1.概要)
[6]次ページ
(3.東方問題)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/10/07 08:00
ソ人気記事ランキング
2020/02/29 更新
 1位日本
 2位羽生ありさ
 3位水野朝陽
 4位2月28日
 5位AV女優
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant