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バーブル
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1.生涯
1.6.インドにおける勢力の拡張
デリーの制圧後、バーブルはヤムナー川ガンジス川を越えてビハール地方ベンガル地方に遠征した。

デリー、アーグラを制圧した後も周辺の勢力はバーブルに服属しておらず、長期の遠征に疲弊した将兵はカーブルへの帰還を望んでいた[78]。バーブルは部下たちを説得してインドに留まらせ、説得に応じない人間はアフガニスタンに帰らせた[79][80]。バーブルへの臣従を願い出る領主も現れ始め、7月までに事態はやや沈静化する[78]

各地の領主は外部からの侵入者であるバーブルを敵視し、かつてバーブルと同盟してローディー朝と戦ったラーナー・サンガーが敵対勢力の中心人物となった[81]。ラーナー・サンガーの同盟者の中にはイブラーヒーム・ローディーの弟マフムード・ローディーも含まれていた[79][82]。インドの気候に慣れないバーブルの軍は疲労し、バーブルの敗北を予言する占星術師の言葉が兵士たちの士気をより低下させていた[83]。ラーナー・サンガーと同盟軍の戦力は200,000を超えていたといわれ、バーブルの部下の中にはパンジャーブへの撤退を進言する者もいた[81]。バーブルのインド征服の決意は揺るがず、禁酒令を敷き、演説によって部下の士気を高めた[82][84][85]。また、ラーナー・サンガーに勝利した後にはイスラーム教徒からタムガ(商取引税)を徴収しないことを誓約する[86]。バヤーナに進んだラーナー・サンガーがバーブルの先遣隊に勝利した時、バーブルはアーグラ近郊のハーヌアー(Khanwa)に陣地を設営した[87]。バーブルはハーヌアーの戦闘でも先のオスマン帝国の戦術を用い[82][86]、かつてサリ・プルの戦いでシャイバーニーが用いた戦術を模して右翼と左翼の端に別動隊を配備し、敵軍を背後から攻撃させて撹乱した[88]。1527年3月17日にバーブルはハーヌアーの戦いでラージプート連合軍を破り、戦勝の後に「ガーズィー(信仰の戦士、異教徒の征服者)」の称号を帯びる[89][90]。ハーヌアーの勝利はラージプートに大打撃を与え、以降ラージプートの王侯は連合を組まず個別にイスラーム勢力と戦い、あるいは戦わずに降伏した[91]

4月にアーグラに凱旋したバーブルは臣下に領地の配分を行うが、体調は悪化し、高熱に苦しんだ[92]。病からの回復を祈願し、11月9日からバーブルはナクシュバンディー教団の指導者ホージャ・アフラールの著書『ワーリディーヤ(父のための書)』のチャガタイ語による韻文訳に着手する[93]。11月20日にバーブルは翻訳を終え、病から回復したと伝えられている[93]。バーブルは病状が少しでも良化すると遠征に出ようとしたが、強大な軍隊を支配下に留めておくため、自分が軍を率いて出兵しなければならないと考えていた[94]

1528年初頭にバーブルはチャンデリーを攻略し、チャンデリーの救援に向かったラーナー・サンガーは行軍中に暗殺された。1529年1月に東方で勢力を置くアフガン系貴族を攻撃するため、バーブルは遠征を行ったが、行軍中に水膨れに罹ってオスマン・トルコ式の医術を施される[92]。4月にビハールで勢力を回復していたマフムード・ローディーをベンガルに放逐し[95]、同年5月にパトナ近郊のゴグラ(ガーガラ川)の戦いで、バーブルはマフムードとベンガルの支配者スルターン・ヌスラット・シャーの連合軍に勝利する。戦後にバーブルはスルターン・ヌスラット・シャーと和平を結び[95]、ヒンドゥスターンの支配権を確立した[1][95]。バーブルがローディー朝、ラージプートに対して収めた一連の勝利は、ヒンドゥスターンの勢力図を一変させた[60]

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(1.5.デリーへの入城)
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出典:Wikipedia
2019/07/10 13:00
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