ハンス・フォン・ゼークト
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1.略歴
1.1.軍の最高実力者
敗戦後の1919年パリ講和会議ではドイツ側の陸軍代表として参加した[2]。またパウル・フォン・ヒンデンブルクの退任後には参謀本部総長を務めたが[2]ヴェルサイユ条約によりドイツは軍備を10万人に制限され、参謀本部も禁止された。しかし参謀本部は兵務局と偽装され、ゼークトはその局長に就任した[2]1920年カップ一揆社民党政治家のノスケ国防大臣の鎮圧命令を「軍は軍を撃たない」と拒否し、軍の独自性を確保した[2]。またヴァルター・ラインハルトとの政治闘争に勝利し、3月には陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr、陸軍総司令官) に就任する[2]。ゼークトは10万人の陸軍をエリート化して将来拡大する国民軍の中核とする構想を抱いており[3]、また革命期のロシア(ソビエト連邦)と提携して再武装を行おうとした[4]。これはラパッロ条約の締結となって実を結び、ヴェルサイユ条約が禁じる戦車化学兵器航空機などの兵器をロシア奥地で開発研究することにつながった(これは「黒い国防軍」計画と呼ばれる)。

1923年ルール占領にともないドイツは混乱状態に陥った。11月5日、フリードリヒ・エーベルト大統領はヴァイマル憲法48条の非常大権を発動し、ゼークトに一種の軍事独裁権を付与した[1]。ゼークトはザクセン州テュービンゲンの左翼運動には即座に軍による弾圧を加えたものの、ミュンヘン一揆については国防軍の直接介入を避ける形で鎮圧した[1]

1926年、ヴュルテンベルクにおける歩兵連隊の演習にヴィルヘルム2世の孫ヴィルヘルム・フォン・プロイセン王子を独断で招待したことを、ゲスラー国防相を始めとする政府から非難されて辞職、退役した。

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出典:Wikipedia
2019/04/02 20:00
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