ナザレのイエス
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4.「史的イエス」の復元
4.3.復元されたイエス像

「史的イエス」の生涯[編集]


キリスト教では異端とされるグノーシス主義研究者の荒井献は、『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』の共観福音書の文献学的な比較検討により、イエスの生涯には少なくとも、

ガリラヤにおける宣教
エルサレムにおける処刑
の3つの段階があったと推定できる、としている[17]

イエスの生年[編集]


一般に、イエスの生年は紀元前7年 - 紀元前4年頃とされている。紀元前7年とみなす説を採っているのがエテルベルト・シュタウファー(Ethelbert Stauffer)や弓削達であり、荒井献八木誠一は紀元前4年説に立っている[68][69]

これは、『マタイによる福音書』2章の、イエスがヘロデ大王の治世(紀元前37年 - 紀元前4年)の末期に生まれたという記述、および『ルカによる福音書』から推定されているものであるが、キリスト教以外の史料には該当の既述がないため、断定は困難である。

イエスの生地と家系[編集]


伝統的には、イエスはユダヤの町ベツレヘムにおいて処女マリアから生まれたと信じられている。これは、『マタイによる福音書』1-2章および『ルカによる福音書』2章に拠っている。しかし、荒井献は、最も先行する福音書と考えられる『マルコによる福音書』も、さらにそれに先だつ時期に大部分が執筆されたと考えられる『パウロ書簡』も、あるいは福音書中もっとも年代の新しい『ヨハネによる福音書』もベツレヘムにおける処女降誕に関する記載がない、と主張する。のみならず、荒井献は『ヨハネ福音書』においては、イエスはガリラヤの出身であると記されており、『マルコ福音書』『マタイ福音書』『ルカ福音書』のいずれにおいても、イエスがダヴィデ王子孫であることは否定されている[70]、と主張するが、実際には『マタイ福音書』1章6-17節、『マルコ福音書』10章 47-48節において、イエスがダヴィデ王の子孫である、とする記載があり、『ルカ福音書』1章 27節にもイエスの父、ヨセフがダヴィデ家の者である、とする記載がある[71]。また母マリアもダビデの子孫である。

『ルカ福音書』によれば、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス紀元前27年-紀元後14年)が、全世界の戸籍人口調査を命令したが、それはシリア総督がプブリウス・スルピシウス・キリニウスだったときのことで、人びとは登録のため自分の故郷へ戻ったとされる。マリアの夫ヨセフはダヴィデ王の流れを汲む家系だったので、マリアをともないガリラヤの町ナザレからダヴィデの町、ユダヤのベツレヘムへおもむいた。そのとき、マリアからイエスが生まれたとしている[72]。にもかかわらず、荒井献によれば、『マルコ福音書』『マタイ福音書』のみならず『ルカ福音書』においても、イエスが「人の子」または「主」として超地上的な存在として信じられており、イエスが「キリスト」であるとしても、単なる地上の王であるダヴィデのような世俗的な王者ではないという主張が認められる、という[73]

すなわち、『マタイ福音書』や『ルカ福音書』においては、イエスの出生について、イエスが「ダヴィデの子」としてベツレヘムに生まれたという伝承と、その一方で超地上的存在として処女から降誕したという伝承が重なっているのであり、これはたがいに矛盾する。荒井は、もしもイエスが処女から生まれたとするなら、マリアだけではなく、イエスとも血統的には無関係なはずのヨセフの系図をダヴィデにまで遡行させる必要はない[73]、と指摘している。八木は、イエスがダヴィデに連なり、ベツレヘムで生まれたという伝承は、メシア(キリスト)はダヴィデの家系から出て、ベツレヘムに生まれるという預言から逆につくられた伝承である可能性を指摘している[72]。荒井は、イエスは誕生物語以外の場面では一貫して「ナザレ人」「ナザレ出身者」の術語が用いられており、これはすべての福音書において一致するとする[72][74]。このようにみた場合、イエスの出身地はガリラヤのナザレとみるのが妥当である。

新井智は、イエスの数人の弟妹のうち実弟といわれるヤコブ(義人ヤコブ)は、キリスト教会の中心的指導者として実際に活動している[75]と主張する。

イエスの十字架での死[編集]


福音書から、ローマ皇帝ティベリウス治下でユダヤ属州の総督だったポンティウス・ピラトゥスのもとで、十字架刑に処されたと考えられている。

イエスの死が十字架刑であることは、福音書に先行する『パウロの書簡』にも記されており、イエスの実在性とともに蓋然性が高いとされる。なお、十字架の刑は、当時のローマ法の規定によるものであった。

イエスの没年は、

既述のとおりイエスの生年の下限が紀元前4年と考えられること、
イエスが30歳ごろに宣教を始めたというルカによる福音書の記述(3章23節)
などから判断して、おおよそ紀元後30年前後という想定は学界ではおおむね一致している。シュタウファー、弓削、土井正興は紀元後32年とみなしているが、紀元後31年説もあり、荒井は紀元後30年説を採る[68]。八木は紀元後32年か紀元後31年としている[69]

いずれにしても、没年や福音書に記録されている祭典の回数などを信用すれば、イエスが宣教を行った期間は、3年ほどという短い期間だったことになる。

イエスとヨハネ[編集]


荒井献は、イエスの生涯において、ガリラヤでの宣教に先だつ時期にバプテスマのヨハネのグループで活動していたことを重視し、2人の行動上における相違点を整理して次の3点が際だった違いであると指摘している[17]

ヨハネが「神の国」の接近にもとづいて人びとに「悔い改め」を迫ったのに対し、イエスは「神の国」がすでに実現されつつつあると人びとに告知し、人びとがみずから、あえて社会的・民族的・経済的、場合によっては倫理的にさえも「弱き者」の位置に立とうとするときに立ち現れるものとして「神の国」を説いた。
イエスにのみ多くの奇跡的な逸話が伝承されている。これについて荒井は、イエスには実際に病気を治癒する能力があったのかもしれないと指摘している[17]。ただしそれが、当時の「奇跡物語」という文学形式のなかで高められ、「キリスト(メシア)」あるいは「神の御子」と見なされるべき超人的な力として「宣教のキリスト」に利用されたことも確かな事実である、としている[17]
八木と荒井の両名は、イエス当時のユダヤの支配者とりわけ政治的・宗教的なエリートであったサドカイ派ファリサイ派の人びとは、かれらの生活の価値基準を、かれらが神より授けられたと信ずる律法(「伝達のことば」)に置いていたのであり、かれらによれば、人が神の意志を知ることができるのは律法によってのみであって、したがって、律法を守って倫理的に清く正しい生活をしてきた人びとこそが、終末の際、その功績によって「神の国」に入れられ、律法を守らない者は「神の国」から閉め出されると堅く信じていた[17] [83]、とする。荒井によると、しかし、ヨハネは、過去において律法を守って倫理的な生活を送ってきたことを誇り、それを基準として律法を守らない人びと、あるいは、貧困などによって守りたくても守ることのできない人びとを差別し、穢らわしいものとして蔑む心のありようそのものを「罪」と考えたのであり、過去の基準にではなく将来の基準にこそ転換すべきことを主張した。そして、「神の国」が近づいたことを基準にするのであれば、律法を守りえる者も守りえない者も、よもや同一の地平に立たざるをえないことを訴えた、とする[17]。これによりヨハネは、従来の価値基準を転換する「回心」としての「悔い改め」を説き、「荒野での洗礼活動」をはじめたのであった。

荒井は「神の国」の真の到来は、律法を遵守して生活してきたという過去を誇る者がむしろ神による審判の対象となり、律法を守ろうとしても守りえない者がかえって神による救いの対象となりうるという逆説を生じせしめるのであり、ヨハネはそこにこそ「悔い改め」が求められ、また、それにふさわしい倫理的・禁欲的な生活上の実践が求められているとする[17]。こうしたヨハネの思想に共鳴し、かれの洗礼活動に参加した人びとのなかにイエスやペトロがいた。そしてイエスは、「悔い改め」の思想をいっそう徹底することによってヨハネの禁欲主義的傾向から脱却していく。ヨハネ思想の批判的継承者となったイエスは、こうしてヨハネの教団を離れ、ガリラヤへの宣教へおもむいた。

「貧しき者は幸いである」[84]、「取税人や遊女は汝らよりも先に神の国に入る」[85]などの福音(イエスのことば)に示されるように、イエスは、人間がみずからの民族的・社会的・経済的・倫理的な有能感に立ち、自己を中心に他者の価値を審断しようという心持ちを批判し、人がそうした態度を捨てて、神への信仰によってむしろ自己を相対化し、自身をあえて弱者の側に立つと決意するならば、そこに「神の国」は実現されつつある、と荒井は唱えた[17]

そして、荒井によると、イエスは当時政治的・宗教的指導者によって「罪人」ないしは「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)として蔑まれ、不浄視され、法によって交わることを禁じられていた身体障害者や病人、とりわけ重い皮膚病患者や精神病患者と法を犯しても親交をむすび、みずからこうした弱者、被差別者たちの一員となることによって傷害や病気を癒そうとした[86]、とする。イエスの生涯に多くの奇跡物語の伝承がともなっているのは、まさに、このためであろう、と荒井は考えるのである[17]

革命家イエス[編集]


革命家としてのイエスは様々な解釈が存在する。
アメリカ合衆国の歴史家で雑誌編集者でもあったジョエル・カーマイケル(Joel Carmichael)は、1963年に発表した"The Death of Jesus " (邦題『キリストはなぜ殺されたのか』。西義之訳、読売新聞社刊。1972年) において、イエスはみずから「ユダヤ人の王」としてローマの支配体制に抵抗し、最終的には武力革命の興起を試みた結果、当時のアンチローマ・ラディカリストである「ゼーロータイ」(熱心党)の1人として、ローマ帝国の派遣したユダヤ総督によって磔刑に処せられた、という解釈を施している[87]

このように、イエスを政治的文脈でとらえようとする著作は、歴史家のイエス研究のなかから現れて来る。

イギリス宗教史研究者S. G. F.ブランドン(S. G. F. Brandon)は1967年に"Jesus and the Zealots , A study of the political Factor in Premitive Christianity "(邦題『イエスとゼーロータイ ? 原始キリスト教における政治的要素に関する研究』)を著し、同じころ、日本の西洋史学者土井正興は『イエス・キリスト ? その歴史的追究』(三一書房1966年)を著している。土井のイエス像は、当時、不浄なものとして差別され、虐げられていた「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)と共に立ち、かれらを宗教的に救済しようとするいっぽうで、ゼーロータイ的な政治革命への志向性をも有し、その両者を統合しようとするが、有効な革命理論の定立と行動の組織化に破綻を来したため、イエスはみずからの運動に挫折した、というものである[88]

歴史家によるイエス研究については、上述した聖書学者たちによる史料批判の成果が一顧だにされない傾向について批判があり[87]、とくに解釈における革命家的側面の強調については、ひろくみて「1960年代現象」のひとつではなかったかとの見解もある[88]。これら「革命家イエス」に対する、聖書学者による、より強固な反論としては、1970年オスカル・クルマン(Oscar Cullmann)の"Jesus und die Revolution?ren seiner Zeit " (邦題『イエスと当時の革命家たち』。川村輝典訳、日本基督教団出版局刊。1972年)がある。クルマンによれば、イエスは「ゼーロータイ」と称された当時の革命家たちよりもむしろ革命的であった、何となれば、イエスは「神の国」建設とその手段としての政治的行動計画さえ拒否して人びとの心の革命(「悔い改め」)をこそ問題にしたからなのであった[89]。一方、荒井献は、イエスを政治的革命家に仕立て上げることも、政治とは関わりのない宗教的次元に押し込むことも不適当であるとし、政治と宗教が不可分であった背景において、イエスが社会的に差別の対象とされていた民衆と共に立ったことが、既にそれだけで宗教的=政治的であったと指摘している。またエルサレム神殿は当時においてユダヤの政治・経済的拠点であり、神殿から両替商を追い出した、あるいは、神殿を打ち壊すと言ったとすれば、それらは決定的な政治批判になるとしている[90]

美術におけるイエス[編集]


西ヨーロッパの宗教画やキリスト彫像は白人の痩せた男性のイメージで作られるのが一般である。しかし現在の欧米の研究者の間ではコーカソイドではあるが中近東から地中海沿岸一帯にかけて分布する、いわゆる地中海地方特有の人種であったと想定されており、北方ヨーロッパ系の形質の身体であったとは考えにくい。

なお、北欧系白人の形質としてイエスが描かれて来たのは西方教会に限定される現象である。東方教会イコンにおいては、古くから地中海人種の特徴をそなえたかたちでイエスは画かれてきた。

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(5.1.ルドルフ・カール・ブルトマン)
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出典:Wikipedia
2019/05/05 05:30
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