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セルジュ・チェリビダッケ
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2.指揮者として
2.2.国際的な客演指揮者として
こうした雰囲気に嫌気がさしたチェリビダッケはベルリン・フィルと距離を置き、ロンドンでの客演活動を始め、さらにヨーロッパ全域から中南米にいたるまで客演の範囲を拡大していった。チェリビダッケとフルトヴェングラーとの友情も失われ、1952年にフルトヴェングラーが「終身首席指揮者」に復帰すると、事態はより決定的となった。この時期、チェリビダッケとベルリン・フィル周辺の関係は破綻していたが、一方でベルリン・フィルでの指揮活動は聴衆や批評家から圧倒的な支持を受けており、1953年にベルリン市の「音楽芸術賞」、1954年には功労十字大勲章を、1955年にはドイツ批評家協会賞を受賞している[8]

聴衆や批評家はチェリビダッケに熱狂し、オーケストラの団員や幹部は反発を強めるという状況のなか、フルトヴェングラーが肺炎で倒れ、事態は急展開する。1954年11月、フルトヴェングラーが死の病に伏しているさなか、チェリビダッケは『ドイツ・レクイエム』のリハーサルで大衝突を起こし、それから38年後の1992年3月31日に時の大統領ヴァイツゼッカーに請われて最初で最後の復帰を果たすまで、ベルリン・フィルを指揮することはなかった[9]

フルトヴェングラーの死後、その後継者としてベルリン・フィルはヘルベルト・フォン・カラヤンを選出する。チェリビダッケはその後しばらくイタリアを中心に活動し、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団イタリア放送協会 (RAI) に所属する複数のオーケストラ(トリノ、ローマ、ミラノ他)などで客演を重ねた。1960年から1963年まではデンマーク王立管弦楽団、1963年から1971年まではスウェーデン放送交響楽団との結びつきを強めた[10]

1971年6月に、南ドイツ放送交響楽団(のちのシュトゥットガルト放送交響楽団)創立25周年コンサートでの指揮が好評を博したのがきっかけで、翌1972年に定期客演指揮者となる。以降1977年まで実質的な芸術監督として活動をし、同楽団の水準をドイツの有力オーケストラにまで引き上げた[11]

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出典:Wikipedia
2019/10/16 14:00
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