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ズデーテン地方
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1.歴史
1.3.チェコスロバキア時代
ドイツ人居住域は正式なチェコスロバキア領となり、北東部のKrkono?sko-jesenick? subprovincieなどが設置された。

1920年9月20日、チェコスロバキア政府は憲法の不可分の構成部分として言語法を定めた。これはチェコ語とスロバキア語を同一のものとする「チェコスロバキア語」を唯一の公用語とし、ドイツ語が公的機関などで使えるのは住民の20%以上がドイツ語を話す地域に限られた。またチェコ人がほとんどいない地域にもチェコ語の地名表記が行われるようになったほか、ドイツ人学校は次々に閉鎖へと追い込まれた。これらの政策は二重帝国時代から見ても後退であり、チェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党英語版などのドイツ人諸政党はこぞって反対した[9]。しかしチェコ人も「われわれのドイツ人 (na?i N?mci)」とドイツ人を呼ぶようになり、一般の住民同士の関係は比較的良好であった[10]。一方でチェコスロバキア政府はドイツを警戒して強固な要塞線英語版を築いていた。

世界恐慌が発生すると、ドイツ人居住域の状況は深刻なものになった。この地域の産業は鉱山・ガラス・製陶・繊維など輸出頼りであり、零細企業が多かったため、失業者の割合も他の地域の2倍以上に達した。さらにドイツ人よりチェコ人の雇用が優先されているとして、ドイツ人の間でチェコ人に対する不満が高まった[11]。さらに隣国ドイツにおけるヒトラー政権下の経済回復が、ドイツ民族の民族共同体を目指すという、非民主的なコンラート・ヘンライン率いる「ズデーテン・郷土戦線」の勢力拡大につながった。1935年に郷土戦線はズデーテン・ドイツ人党と改称し、同年の選挙で最多得票を獲得し、第二党となったが政府には参加しなかった。1937年9月16日にミラン・ホジャ首相とヘンラインの会談が行われ、ヘンラインは将来における自治権と、それに至るまでの「自決権」を要求した。しかし10月18日にズデーテン・ドイツ人の集会が禁止され、同党幹部カール・ヘルマン・フランクらが警察による暴行を受けるという事件が発生した[12]。ヘンラインは公開書簡で早急な自治権設定を要求し、ドイツ公使も支持した。ここにいたってズデーテン地方のドイツ人問題は国際問題化し、ヘンラインも自治権要求から「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」に目標を切り替え、ドイツの支援を要請した[12]

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(1.4.ドイツへの併合)
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出典:Wikipedia
2020/01/05 14:00
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