スペイン
▼人気記事ランキング
2.歴史
2.5.黒死病にあえぐアラゴン
1325年、アラゴン王国ジェノヴァ共和国からサルデーニャを奪った。

1348年から1349年黒死病大流行によってスペインは荒廃した[20]。とくにアラゴンのバルセロナが直撃を受けた[21]。カタルーニャでは人口の三割が失われた[21]。1346年に造幣されたフローリン金貨は対外債務の増大により海外へ流出し、これを防ぐために悪鋳されていった[21]。クロアット貨は品位が維持され、投機の対象となり、保有する者は退蔵しがちであった[21]。にわかにフランス貨幣が流入し、日常の交換手段として用いられた[21]。王室財政が王領地の減少と莫大な債務にあえぐ一方で、バルセロナ財政も公債発行に追い込まれた[21]。自転車操業の末、1380年代に公債が軒並み償却できなくなった[21]。バルセロナの個人銀行は、公債を引受けていたところをはじめとして連鎖的に倒産した[21]。バルセロナ市当局は1401年に財政を管理下において欧州初の公営銀行を設立した[21]。バルセロナ他多数の地域とは対照的に、アラゴンのバレンシア王国だけは農産物と羊毛の輸出力を強みとして急速に人口を回復していた[22]。1412年カスティーリャにトラスタマラ朝が成立した[23]。アラゴンはカスティーリャ内政に干渉したが、しかし逆効果であった。カスティーリャとジェノヴァ共和国の同盟関係は強化される一方であった[23]。1430年、カスティーリャのフアン2世と休戦条約をむすび、アラゴン勢力はカスティーリャ内政から締め出された[23]。1453年、カタルーニャ総督にガルセラン・ダ・レケセンス(Galceran de Requesens y Santa Coloma)が任命された[22]。彼は商人や手工業者を主体とするブスカ市政を実現した[22]。ブスカは7年にわたり市政を掌握し、保護主義政策を打ち出した[22]。すると輸入業者や地代生活者からなるビガの反発がおこった[22]。ビガはブスカだけでなく王権にも挑戦した[22]。1462年からジローナを起点として、カタルーニャでは内戦がつづいた[22]。ここへ1466年ごろからフランス軍が侵攻しカタルーニャ総督を任命したので、アラゴンはイングランド王国ブルゴーニュ公国と同盟した[22]。1468年、バルセロナの公営銀行が事実上の破綻をむかえた[21]

[4]前ページ
(2.4.再征服を遂げたカスティーリャ)
[6]次ページ
(2.6.カスティーリャ=アラゴン連合王国)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/08/17 02:30
ソ人気記事ランキング
2019/09/22 更新
 1位日本
 2位逆鉾昭廣
 3位9月21日
 4位清須会議 (小説)
 5位プレーオフ
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant