スコピエ
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4.歴史
4.2.中世
ビザンティン支配後のスクーピは地域の交易や軍の駐屯地として重要な場所となった。ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世(527-565)はタウレシム (enで生誕している。[31]この町は現代のスコピエから 僅かに南東へ20 km離れた場所にある。その後、スクーピは518年に地震により完全に壊滅してしまい、歴史家のプロコピオスによればユスティヌス1世は新しい建物や都市を自分の生誕地であるタウレシウムやベデリアナ(今日のタオル(Taor)やバデル(Bader)の村がそうであるとされている。)に建てられ[32]、これらの土地はレペネツ川がヴァルダル川が流れ込む肥沃な土壌となっており、中世の都市跡ユスティアナ・プリマ (enが残されている。[33][34] 混乱に伴いブルガリア、イピロス専制公国ニケア帝国などが次々に占領した。中世初期にスクーピはビザンティンと第一次ブルガリア帝国の争いの場となり972年から992年にかけ第一次ブルガリア帝国の首都であった。[35]1018年にビザンティンの行政地域(katepanat)の首府となるが、後に第一次ブルガリア帝国の手に落ちる。スコピエは交易により栄えていたが、11世紀後半の他の地震により衰退し始める。1189年、スコピエは短期間セルビアの支配を受ける。[36]、スコピエはブルガリアの封建領主の首都となり後の13世紀半ばコンスタンティン1世の支配となる。ビザンティンは地域での影響力を取り戻すため、スコピエの衰退を利用したが再びその支配を失い、1282年にステファン・ウロシュ2世ミルティンに移った。ミルティンの孫であるステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはスコピエを首都とし、後にセルビア人ギリシャ人の皇帝を宣言し[24]、続いて1346年にスコピエを首都とするセルビア帝国を成立させ、大主教座は総主教座に昇格された。1355年にウロシュ4世は急逝し、その跡をステファン・ウロシュ5世が継いだが、セルビア帝国は維持されず小さな公国に分裂した。ヴク・ブランコヴィッチ (enは中世にスコピエを支配した最後のセルビア人でキリスト教徒の君主である。

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出典:Wikipedia
2019/08/04 02:30
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