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ジェノアCFC
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2.歴史
2.6.悲喜交交(1970年代-1980年代)
1970年代を通して、ジェノアは大半を2部で過ごした。アルトゥーロ・シルヴェストリ監督のもと、1973-74シーズンにはセリエA復帰を果たしたが、1シーズンで降格となった。再びセリエAに復帰するのはその2シーズン後で、今度はロベルト・ロザート、ブルーノ・コンティ、若きロベルト・プルッツォを擁していた。2シーズンのあいだセリエAに留まったものの、1977-78シーズンに降格した。この降格は、残留したフィオレンティーナとわずか得失点差1の差で決まるという無情なものだった。両チームは最終節で直接対決を行い、0-0で引き分けていた[21]

降格によって、クラブはセリエAへの迅速な復帰を果たすには欠かせないトッププレイヤーたちを失った。例えばロベルト・プルッツォはローマに移籍し、大きな成功を手にした[22]。2度にわたってセリエBの中位となった後、ジェノアはルイジ・シモーニ監督のもと、1980-81シーズンに前シーズンのトトネロスキャンダルで強制降格させられていたACミランに次ぐ2位で昇格を果たした[23]

シモーニ監督率いるジェノアは、セリエA復帰後最初のシーズンを降格したACミランとわずか勝ち点1差で終え、残留を果たした。最終節のナポリ戦では、残り5分まで1-2でジェノアが追いかける展開だったが、85分にマリオ・ファッチェンダのゴールが決まって残留に必要な勝ち点を獲得した。これが両クラブのサポーター間における友好関係の始まりだった[24]

それから2シーズン後の1983-84シーズンには、最終節でその年の優勝チームであるユヴェントスを破ったにもかかわらず、残留したラツィオと同勝ち点での降格を余儀なくされた。これはラツィオがジェノアとの直接対決で勝ち越したためであった[25]。セリエAに在籍していた1994年には日本代表の三浦知良が1年間の期限付移籍で加入し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。もっとも、この移籍は商業的な狙いによるものとの見解が多く、クラブの胸スポンサーにケンウッドが入っていたこともあって、入団会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた[26]。三浦はセリエAデビュー戦となったACミランとの試合でフランコ・バレージと激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経の損傷により一ヶ月の離脱を余儀なくされた。復帰後、UCサンプドリアとのジェノヴァダービーで先制点となるゴールを奪ったものの(試合は2-3の敗戦)、結局ゴールはこれのみに終わり、21試合の出場(先発10試合)に留まった。シーズン終了後にチームは降格した。

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出典:Wikipedia
2020/03/21 22:00
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2020/03/30 更新
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