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ジョン・ロック
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2.生涯
1632年8月29日、サマセット州の小さな村リントンに生まれる[2]。父はピューリタン革命期の議会軍の騎兵隊長であった。1646年ウェストミンスター校1652年オックスフォード大学クライスト・チャーチに入学し、哲学医学を修めた。1658年にはオックスフォード大学特別研究員となり、1660年には同大ギリシア語講師、1662年には同大修辞学講師をつとめた。同年には、チャールズ2世とともにスチュアート朝が復活した。1664年『自然法論』を出版。1665年には外交官の秘書としてブランデンブルク選帝侯のいるクレーヴェに派遣された。

1666年にはオックスフォードにやってきたホイッグ党の領袖であるシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーと知り合い、ロックの思想を気に入ったシャフツベリに以後愛顧を受けるようになった。1667年シャフツベリ伯の私設秘書官、主治医となる。同年にはオックスフォードを離れてロンドンに移住し、以後はシャフツベリ伯のブレーンとして利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりした。1668年に『解剖学』、1669年『医術について』を執筆した。1668年には王立協会フェローに選出。

1673年には通商植民地委員会の主事に就任し翌年までつとめるが、1673年シャフツベリは下野した。1675年にはフランスに旅行し、パリモンペリエに滞在している。1680年ごろ、トーリー党の精神的支柱となるロバート・フィルマーの「家父長論」が出版され、これに対する反論として「統治二論」を執筆する。1682年にシャフツベリが反逆罪に問われオランダに亡命したときはロックはイギリスにとどまったものの、王からの迫害を恐れ、翌1683年にはシャフツベリのいるオランダ亡命した[3]。同年シャフツベリは死去したものの、ロックはユトレヒトアムステルダムロッテルダムと転居しながら1689年まで亡命生活を続けた[4]

名誉革命1688年に起きると翌1689年に帰国し[5]、以後執筆活動を盛んにおこなった。帰国後2年間は、ロンドンの借家に住んでいたが、『人間悟性論』を出版した年の秋、健康が優れなくなり、エセックス州のオーツにあるマシャム卿夫妻の移った。マシャム夫人は、ケンブリッジのプラトン学者カドワースの娘で幼い頃からのロックの知人である。家族は夫妻とカドワースの未亡人と2人の子どもで、ロックは進んで子どもたちの家庭教師と家族の助言者を勤めた。1696年には、新設の貿易植民委員会の委員に任命され、毎日正確に会議に出席していた。ロックの代表作である『統治二論』(『市民政府二論』)および「人間悟性論」、さらには「A letter concerning toleration 寛容に関する書簡」は、帰国したその年、1689年に出版されたものである。特に統治二論は名誉革命後のイギリスの体制の理論的な支柱となった。1693年には「教育論」を出版している。1696年には通商植民地委員会の委員となり、1700年までその職にあった。1704年10月28日エセックス州のオーツにて死去した。享年72。

彼の哲学は以後のホイッグの精神的支柱となり、18世紀前半のホイッグ長期政権を支えた。

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出典:Wikipedia
2019/04/05 16:00
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