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ジョン・レノン
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3.生涯
3.8.1970年代
ビートルズ存続中の1970年2月に、メンバーのジョージ・ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」を発表、「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇し、米英でトップ5ヒットとなり、ゴールドディスクを獲得した。

1970年4月10日、ポールが脱退を発表しビートルズが事実上解散した後、アメリカのアーサー・ヤノフ博士が提唱した精神療法である原初療法を受けた。約半年後、ビートルズのメンバーであったリンゴ・スター(ドラムス)、クラウス・フォアマン(ベース)、ゲストにビリー・プレストンを迎え、アルバム「ジョンの魂」を制作し発表した(米6位、英8位)。「マザー」がシングルとして発表された。

1971年6月、アルバム「イマジン」の制作を開始した (発表は10月)。ここではジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、ジム・ケルトナー(ドラムス)、キング・カーティス(サキソフォーン)らが参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。9月、ジョンは活動の拠点をアメリカのニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで暮らし始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治的活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。ジョンはルービン、ホフマン、シールらのイメージが、自分のイメージと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済コンサートへの出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善コンサート(ともに1971年12月)なども行った。ジョンは、公式に特定政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンはロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーFBIによる監視については、ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[18]。このような理由から、ジョンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[19]

1971年6月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。1972年2月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共演した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善コンサートに出演した。6月発表の次作「サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ」は(ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックを務めた)、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争アメリカ合衆国グリーンカードについて歌われているだけでなく、アルバム・ジャケットは裸踊りをするリチャード・ニクソン毛沢東の合成写真が使われた。1972年8月30日、ジョンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善コンサート「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサートのもようは「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発表された。9月に筋ジストロフィーの患者のためのテレビ番組に出演した。

1973年4月1日、ジョンはヨーコとニューヨークで会見を開き、架空の国家「ヌートピア」の建国を宣言した。また、リンゴのソロ・アルバム「リンゴ」に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供。ジョージ、リンゴと共演した。11月、アルバム「マインド・ゲームス」を発表した。その前9月に、ジョンはヨーコのもとを離れ、個人秘書のメイ・パンとともにロサンゼルスで生活を始め、いわゆる「失われた週末」をリンゴやハリー・ニルソンザ・フーキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。

1974年3月からはハリー・ニルソンの「プシー・キャッツ」をプロデュースした。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム「心の壁、愛の橋」(Walls And Bridges)を発表した。このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、この中で「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演した。ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作した。このアルバムからは11月に「真夜中を突っ走れ」(全米1位)、「夢の夢」(同9位)がそれぞれシングルカットされた。

同時期、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演した。同曲はシングルカットされ、エルトンは3枚目の全米1位を獲得した。その後、11月にエルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」で共演した。コンサート後、ジョンはヨーコと再会したと一説には言われており、1975年1月には「失われた週末」を終えてヨーコのもとへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。長く未発表で、2007年発表の「ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー」に収録された。また、リンゴのアルバム「グッドナイト・ウィーン」にも参加し「オンリー・ユー」をプロデュースした(全米6位)。

1975年2月、カヴァー・アルバム「ロックン・ロール」を発表。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。デヴィッド・ボウイと知り合い、ボウイの「ヤング・アメリカンズ」(3月発表)でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニヴァース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによると、スタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。6月にはテレビ番組「サリュート・トウ・サー・リュー・グレイド」に出演した。10月9日、本人の誕生日と同じ日にショーン・レノンが誕生した。10月にはベスト曲集「シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡」を発表した。

1976年にリンゴのソロ・アルバム「リンゴズ・ロートグラヴィア」に「クッキン」を提供したあと、75年に誕生した次男・ショーンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。7月27日にアメリカの永住権を取得した。その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。その時期に作られた楽曲のデモ・テープの数々は1998年に「ジョン・レノン・アンソロジー」で発表されている。

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出典:Wikipedia
2020/02/21 23:00
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2020/02/26 更新
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