ジョン・モルガン
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4.合衆国の「中央銀行」として
1895年1893年恐慌の影響でアメリカ合衆国財務省の保有していたの海外への流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。

当時の民主党グロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請[8]。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896年の大統領選挙において同じ民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した[9]。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。

モルガンは次節の鉄鋼トラストを形成してから、1907年恐慌の処理に主導的役割を演じた。1910年11月、モルガンが所有するジキル島クラブで連邦準備制度の設立に向けた秘密会議を主催した。そこにはジョン・ロックフェラーウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト、そしてバンカーズ・トラスト(現ドイツ銀行)のベンジャミン・ストロングなどが出席した。

1912年12月、モルガンはプジョー委員会で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。ファースト・ナショナル銀行とナショナル・シティ銀行の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに合衆国最高裁判所裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした[10]。プジョー委員会はインサイダー取引や取引所ぐるみの株価操作が日常化しているウォール街の改革案として、有価証券リテールの連邦政府監視や株式公募のインベスター・リレーションズを主張したが、第一次世界大戦が勃発して改革は立ち消えとなってしまった[11]

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出典:Wikipedia
2019/01/21 01:31
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