ジュゼッペ・ヴェルディ
▼人気記事ランキング
1.生涯
1.11.音楽に倦み、また惹かれる
1861年秋、ヴェルディは音楽制作に戻っていた。激変したイタリアに刺激された事、また、まだ知らぬロシアからのオファーが舞い込んだことも情熱を掻き立てた。一流の歌手が揃うペテルブルク帝室歌劇場も期待させた。題材をスペインの戯曲に求め、書き上げた曲を携えて12月に夫妻は汽車の乗客となった。しかし、ソプラノ歌手が体調を崩して舞台は中止され、質を落とす位ならばと数ヶ月単位の延期を決めて夫妻はパリに向かった[43]

1862年2月、ヴェルディはパリでロンドン万国博覧会用の作曲依頼を受けた。これはドイツのジャコモ・マイアベーア、フランスのフランソワ・オーベールと並んだ打診であり、ヴェルディはいわばイタリア代表とも言えた。彼は「諸国民の賛歌 (Inno delle Nazioni)」を作曲し、見物を兼ねてロンドンを訪問したが、万博の音楽監督を担当したナポリ出身の作曲家が面白くなく思ったのか「諸国民の賛歌」演奏を断った。結果、別に演奏され好評を博したが、この曲のイタリア公演は再び不穏さを増した政治情勢を鑑みて断った[43]

そして秋になり、再びペテルブルクに入ったヴェルディは11月に開演した『運命の力』に一定の満足を得て、しかも聖スタニスラス勲章を贈られる栄誉に授かった。ただしこの作品は他の都市ではあまり評価されなかった。3人が死を迎えて終わるフィナーレ、場面を強調するあまり筋のつながりが悪いなど、台本に無理があった。しかし音楽では、脇役も含めた人物の特徴を表現する多彩な合唱や、テーマや場面そして人物の感情の変化などを繋ぐ音楽はヴェルディの創意が反映していた。数年後には台本の改訂を受けて再演され、本作品は高く評価された[43]

翌年、『運命の力』スペイン公演を指揮し、さらに『シチリアの晩鐘』再演のためヴェルディはパリに入った。だが、相変わらずオペラ座の仕事は遅くいい加減で、リハーサルを面倒臭がる団員たちにヴェルディは怒りを爆発させイタリアに帰ってしまった[44]

サンターガタに引っ込み、夫妻で農場経営に精を出すヴェルディは「昔から私は農民だ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽界にはドイツから吹く新しい風に晒され、若い作曲家たちはリヒャルト・ワーグナーから強い影響を受けてヴェルディを過去の人とみなし始めていた。彼はそのような評判を受け流しつつも、皮肉を返すなど内心は穏やかでなかった。そして興行主からはヴェルディの才能は依然高く評価されていた。1864年夏にパリで出版を勤しむエスキュディエから『マクベス』改訂版の上演を打診されると、これをヴェルディは受けた。しかし、ヴェルディの思想とフランス観衆の嗜好が合わず、1865年の公演は失敗した[44]

だが、1867年にヴェルディは、パリ万国博覧会記念のオペラ制作依頼を、しかも会場があのオペラ座ながら受諾する。フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲を題材に選び始まった制作に彼は集中する。傲慢と孤独の間を揺れ動く主人公の心情を描き出すソロは旋律だけに頼らず楽器の音色を効果的に使い、宗教と国家の対立と結末を前例が無いバスの二重唱で表現する。劇性を重視する姿勢はより鮮明に打ち出した[44]

しかし、結果はまたも惨憺たるもので終わる。前作同様パリはオペラに不必要なバレエの挿入を求め、また観客が夕食から最終列車までの間に観劇が終わるように筋の短縮を迫り、オペラ座の怠慢は全く変わらない。綿密な構想も切り刻まれては観客の心は掴めず、1867年3月開演の『ドン・カルロ』は酷評に晒され、敗北したヴェルディはその後のオペラ座からの打診を受けなかった[44]

またもヴェルディが音楽活動を休止した。1868年2月、父カルロが亡くなった。彼は弟(ヴェルディの叔父)の娘フィロメーナを養育していたが、彼女はヴェルディ夫妻が引き取り養女とした。半年後、今度はもうひとりの父であるアントーニオ・バレッツィの死を看取った。病に倒れてからは妻ジュゼッピーナも看病に通っていたが回復は叶わず、ヴェルディが弾くピアノ「黄金の翼」を聴きながら息を引き取った[45]

同年秋、ヴェルディは尊敬する同時代人のひとりジョアキーノ・ロッシーニの死に、他の著名なイタリア人作曲家たちとのレクイエム組曲を共作することになった。しかし彼は熱心に取り組んだが、無報酬であったため他の者はいまひとつ乗らず計画は頓挫した。ヴェルディは、これは長年の友人であり、指揮を予定されていたアンジェロ・マリアーニに熱意が不足していたためと非難した。これにより2人の友情は壊れた。この背景には、ヴェルディ夫妻が度々ヴェネツィアを旅行した際、マリアーニは婚約していたソプラノ歌手テレーザ・シュトルツと会っていたが、考え方の違いなどが影響しマリアーニとシュトルツの関係は段々と悪化していった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持ちを傾け始めたためとの疑念を持っており、計画に乗り気でなかったことがあった[45]

[4]前ページ
(1.10.再婚と政治)
[6]次ページ
(1.12.『アイーダ』)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/09/28 01:30
ソ人気記事ランキング
2020/01/26 更新
 1位日本
 2位唐田えりか
 3位東出昌大
 4位少年誘拐ホルマリン漬け事件
 5位杏 (女優)
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant