ジューナ・バーンズ
▼人気記事ランキング
1.生涯と著作
1.4.1930年代
『夜の森』の原稿の大半は1932年1933年の夏の間に書かれたが、その間、バーンズは、芸術のパトロン、ペギー・グッゲンハイム(1980年没)が借りたデボンシャーの荘園主館ヘイフォード・ホールに滞在していた。仲間の招待客にはアントニア・ホワイト、ジョン・フェラー・ホームズ(1897年 - 1934年)、そして小説家で詩人のエミリー・コールマン(1899年 - 1974年)がいた。その荘園主館 - 住人らによって「ハングオーバー・ホール」と渾名を付けられた - での夕べは、しばしば「真実」と呼ぶパーティ・ゲームで過ごされたが、それは緊迫した、感情に支配された雰囲気を作り出して、容赦の無い率直さを奨励した。バーンズは恐ろしくて書きかけの原稿を放っておけなかった。というのも、バーンズに秘密を打ち明けていた気まぐれなコールマンが、もしバーンズがその秘密をばらしたら原稿を焼いてしまうと脅していたからだった。しかし、コールマンは一度その原稿を読むとその擁護者になった。連続する草稿のコールマンの批評分によってバーンズは大きな構成的変更をほどこす気になり、出版社が次々とその原稿を拒否したときに、当時「フェイバー・アンド・フェイバー」の編集者だったT・S・エリオットを説得して読ませたのがコールマンだった。

フェイバー社は1936年にこの本を出版した。書評はこれを偉大な芸術作品として扱ったが[36]、あまり売れなかった。バーンズはフェイバーから前金を受け取っておらず、最初の印税計算書もわずか43ポンドだった。翌年ハーコート・ブレイスから出版されたアメリカ版の売れ行きは同じようなものだった[37]。バーンズの1930年代はジャーナリズムでほとんど仕事をしておらず、ペギー・グッゲンハイムの金銭的支援に大きく依存していた。常に病気にかかっていて、飲酒量はどんどん増えて行った - グッゲンハイムに拠れば、バーンズは1日にウィスキーボトル1本を空けたという。1939年2月、ロンドンのホテルにチェックインして、自殺未遂をした。グッゲンハイムが通院費や医者代を支払ったが、遂に辛抱できなくなり、バーンズをニューヨークに送り返した。バーンズはニューヨークでは母とひと部屋を共有したが、母は夜通し咳をしたし、クリスチャン・サイエンスに改宗して、メリー・ベーカー・エディからの章句を読み続けた。1940年3月、バーンズの家族は禁断療法を施すためにニューヨーク州北部のサナトリウムにバーンズを入らせた[38]。怒ったバーンズはその一家の伝記を書く計画を始め、エミリー・コールマンには「私が家族に対して憎しみ以外の感情を抱く理由はもはやない」と書き送った。このアイディアは最終的には戯曲『交唱』に結実した。ニューヨーク市に戻ったバーンズは母とひどい喧嘩をし、通りに放り出された[39]

[4]前ページ
(1.3.パリ(1921年-1930年))
[6]次ページ
(1.5.グリニッジ・ヴィレッジへの帰還(1940年-1982年))
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/05/08 22:31
ソ人気記事ランキング
2020/01/19 更新
 1位日本
 2位2000年
 3位軽井沢スキーバス転落事故
 4位賭博黙示録カイジ
 5位平清香
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant