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サンクトペテルブルク
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概要
サンクトペテルブルク: Санкт-Петербург, サンクトピチルブールク, IPA:[sankt p??t??r?burk]  発音/ファイル])は、バルト海東部のフィンランド湾最東端に面するネヴァ川河口デルタに位置するロシア西部の都市であり、レニングラード州州都1917年までロシア帝国の首都であった。

都市建設ののち、度々都市の改名が行われ、第一次世界大戦まで(1703年 - 1914年)はドイツ語風のサンクトペテルブルクСанкт-Петербург)、第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はドイツとの開戦に伴いロシア語風のペトログラードПетроград)、ソビエト連邦時代(1924 - 91年)はソ連建国の父ウラジーミル・レーニンを記念してレニングラードЛенинград)と呼ばれた。

地理[編集]

サンクトペテルブルクの他にフィンランド湾に面する主要2都市であるフィンランド首都ヘルシンキ、エストニア首都タリンとの距離は、それぞれ300キロメートル (190 mi)、350キロメートル (220 mi)である[1]

モスクワは、帝政時代はサンクトペテルブルクに次ぐ副都でありソ連時代から現代に至るまでのロシアの首都である。サンクトペテルブルクとは直線距離で600km以上離れている(東京〜函館、鹿児島〜那覇、フランスのパリ〜マルセイユ、イギリスのロンドン〜アバディーン、ドイツのベルリン〜スイスのチューリッヒ間の距離に相当)。これは、サンクトペテルブルクから、バルト海の対岸のスウェーデンの首都ストックホルムリトアニアの首都ヴィリニュスベラルーシの首都ミンスクとの各距離とほぼ等しい。

東方問題の最前線として開発された世界都市である。行政上はモスクワおよびセヴァストーポリとともに単独で連邦市を形成しており、他の二都市と同じく都市単独でロシア連邦を構成する85連邦構成主体のひとつである。人口が100万人を超える都市としては世界で最も北に位置する。

市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達し、バルト海の最重要港湾都市の地位を持っている。ネヴァ川は運河や河川などにより、白海ドニエプル川ヴォルガ川と結ばれているため、この都市はカスピ海やウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。港は冬季である11月から4月に凍結してしまうが、厳寒期を除いて常に砕氷船が航路を維持している。また、市中心部に運河が縦横に巡る美しい街並みを有することから、「水の都」として有名なイタリア北東部の都市ヴェネツィアにちなんで「北のヴェネツィア」と称されることもある。

街の中心は、旧海軍省からアレクサンドル・ネフスキー大修道院にいたる街の目抜き通りであるネフスキー大通りである。この通りは帝政時代より街の中心であり、現在でもサンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客も訪れる。

歴史[編集]

名前の変遷[編集]

都市の名は「聖ペテロの街」を意味する。これは、建都を命じたピョートル大帝が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。隣国のフィンランドではサンクトペテルブルクを、ペテロのフィンランド語名そのままにピエタリ (Pietari) の名で呼んでいる。

当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ (Санкт-Питер-Бурх) と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク (Санкт-Петербург) と呼ばれるようになる[注釈 1]。なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い[2]。 ロシア帝国の首都として長く定着していた。

1914年、第一次世界大戦が始まり、ロシア帝国ドイツ帝国と交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード (Петроград)[注釈 2] と改められた。さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりウラジーミル・レーニンにちなんでレニングラード (Ленинград, リニングラート[注釈 3] と改称され、この名称が半世紀続いた。

しかし、ソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。ロシア人の間ではピーテル (Питер, ピーチェル) の愛称で呼ばれる[3]。州名は従来どおりレニングラード州となっている。

市の建設以前[編集]

ネヴァ川河口域は、古くはバルト海からヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれた交易ルートに位置し、ルーシの北辺に位置していた。キエフ公国が分裂するとノヴゴロド公国の辺境地帯となった。ノヴゴロドはここから発するネヴァ川水路でバルト海とつながっており、ハンザ同盟の4大商館のひとつが置かれた。一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くスウェーデンとの国境地帯ともなっていた。1240年には両国の間に、現在の中心部東端に当たる場所でネヴァ河畔の戦いが起こった。この戦いはノヴゴロド公アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド側が勝利し、アレクサンドルは「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加えて以後アレクサンドル・ネフスキーを名乗るようになった。ネフスキーはロシアの英雄の一人となり、サンクトペテルブルク建都後に彼を記念して、古戦場にアレクサンドル・ネフスキー大修道院が建てられた。その後はノヴゴロドを併合したモスクワ公国領となっていたが、1617年にスウェーデンがここを奪取した(ストルボヴァの和約)。ほどなくスウェーデンは三十年戦争を通じて、フランスオランダと経済協力関係を結び、アムステルダム資本がサンクトペテルブルクへ流入した。

都市の歴史-ロシア帝国時代[編集]

ピョートル大帝によって1703年5月27日(グレゴリオ暦が定められた。当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた人工都市であり、現在でも5月27日は建市記念日として市の祝日となっている[4]大北方戦争に苦心する中で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営された。造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であった。河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設された。建造作業は過酷なもので1万ともいわれる人命が失われた。これらの建設費用と、これから必要とされる軍事費を借款ないし同都市での貿易における利益から回収するため、経済面においてサンクトペテルブルクにかかる期待は非常に大きかった。ロシアがポルタヴァの戦いに勝利した後、1713年この地へ遷都が行われた。

1725年に皇帝エカチェリーナ1世がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。同年、人口が10万人を超えた[5]。翌年ロシアがウィーン同盟に加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。1728年イスタンブールに印刷所ができた。オスマン帝国の情報が黒海経由で科学アカデミーに集積され、それがライン川へ送られた。1734年、英露通商条約[6]。ロシアはオーストリア・ロシア・トルコ戦争 (1735年-1739年)ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒに軍政を委ね、アゾフ海クリミア半島の奪取に成功した。

歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続けた。1754年には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿として冬宮が完成し、ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。1757年には演劇アカデミーが創設された。エカチェリーナ2世の時代の1762年には冬宮の一角に後のエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。1766年、再び英露通商条約を締結。[6]。1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるアシグナツィアを流通させた[7]。この年アムステルダムでロシア初の外債も発行した[7]。このため市章はラバルムをモチーフとした。1779年、アシグナト銀行が設立された。ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した[7]。1787年、仏露通商条約[6]

1800年、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する。[5]。1812年の祖国戦争において第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、1817年、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した[7]1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱が起きたもののすぐに鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設された。この鉄道事業には、ベアリングス銀行ホープ商会が投資していた[7]1851年にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した[8]。1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設置した。このときロスチャイルドのロシア投資を仲介するアレクサンドル・スティグリッツが初代総裁となった[7]。1869年、人口は67万人になった。[5]。1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている[9]

1894年、ロシアがドイツ帝国と通商条約を結んだ。1897年、国立銀行が中央銀行となる。1898年6月、国立銀行が露清銀行の新株を全部引き受けて、パリバの支配に対抗した。19世紀末には聖イサアク大聖堂血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物がこの時期に多く建設された。また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。

1905年10月、サンクトペテルブルクでソヴィエトがゼネストを起こす。1907年、英露協商1910年には人口は190万人に達していた[5]。同年、露亜銀行が誕生した。このころ、株式商業銀行をふくめたサンクトペテルブルクの銀行群がロシアの金融界で支配力を急速に増した[7]。これらは露仏同盟などをきっかけに都市開発が進んだ結果である。1912-14年、ロシアの大銀行がパリロンドンなどの国際金融市場へ支店・持株会社を設立した[7]。1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。

都市の歴史-ソビエト連邦時代[編集]

ロシア革命では二月革命十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をペトログラード(サンクトペテルブルク)からより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。1924年にロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」を意味するレニングラードに改名された。

レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランドによって占領される危険性があった。そこでスターリンはフィンランドに対してレニングラード付近にあるフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府はこの要求を断固拒否したため、1939年冬戦争が勃発。ソ連とフィンランドには絶望的な戦力差があり、当初はソ連の圧勝かと思われたがフィンランドは善戦し、多大な犠牲をソ連に強いた。しかし結局翌1940年には当該地域の割譲をもって講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランドとドイツ軍による約900日、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。

戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯や地理的要因からモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力闘争でも影響力を持つことになった。しかしながら、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後の2000年に大統領に選ばれたウラジーミル・プーチンが初めてである。

都市の歴史-ロシア連邦[編集]

1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。2006年には第32回主要国首脳会議(G8サミット)、2013年にG20が開かれている。会場はストレルナロシア語版のコンスタンチン宮殿ロシア語版[10]

2013年よりラフタ・センターという高層ビルが市の郊外に建設され2018年の完成を予定している。高さ463mを予定しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。

2019年10月1日より、電子査証によるサンクトペテルブルクおよびレニングラード州への訪問が可能となった[11][12]。(詳細はロシアの査証政策を参照)

気候[編集]

ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤大陸性気候 (Dfb) に属する。北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前も薄明の時間が長い。その一方、冬の日照時間は非常に短い。冬の寒さは暖流の影響で内陸部やモスクワよりは温和であるが、時に−25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。高緯度なため、可照時間が増えてくる2月が最寒月である。過去最低気温は1883年の−35.9度、過去最高気温は2010年8月の37.1度である。

行政[編集]

行政区[編集]

サンクト・ペテルブルクには、18の行政区が設置されている。

ワシリエオストロフ区(Василеостровский、ワシリエフスキー島など)
ヴィボルグ区(Выборгский)
カリーニン区(Калининский)
キーロフ区(Кировский)
コルピノ区(Колпинский)
クラスノグヴァールジェイスク区(Красногвардейский)
クラスノセルスク区(Красносельский)
クロンシュタット区(Кронштадтский)
クロールト区(Курортный)
モスクワ区(Московский)
ネヴァ区(Невский)
ペトログラード区(Петроградский)
ペトロドヴォレツ区(Петродворцовый)
プリモルスク区(沿海区)(Приморский)
プーシキン区ロシア語版(Пушкинский)
フルンゼ区(Фрунзенский)
中央区(Центральный)

経済[編集]

サンクトペテルブルクはロシアを代表する港湾工業都市である。造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革などの工業が発達している。

文化[編集]

文学[編集]

サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、いわゆる「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。こうしたことから、ペテルブルク市民はこの都市の高い文化水準に誇りを持っているとされている。

音楽[編集]

サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団
エフゲニー・ムラヴィンスキーが指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。旧称「レニングラード・フィルハーモニー交響楽団」。
マリインスキー劇場
20年間に渡り音楽監督を務めているヴァレリー・ゲルギエフのもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。オペラ・バレエだけでなくコンサート(同劇場管弦楽団として)においてもレベルの高い演奏を続けている。現在でも旧称の「キーロフ歌劇場管弦楽団」名義で販売されているCDが少なからずあることから、旧称で当該楽団を知る向きも多い。
ウィンナワルツの作曲家として知られるヨハン・シュトラウス2世は、1856年から連続して1865年までと、1869年、それに晩年の1886年の夏にペテルブルクやその近郊の街であるツァールスコエ・セロー(現在のプーシキン)やパヴロフスクを訪れ、特にバヴロフスクの駅舎コンサートではロシア人聴衆を前に多数のワルツやポルカの数々を相次いで発表し、当地で熱狂的な支持と歓迎を得た。シュトラウス2世自身も滞在先のロシアからウィーンの友人に宛てたある手紙の中で「生きるならロシアに限ります。ここには多くの金がある。金がある所にこそ生きがいがあるのです!」と述べて書き送っているほどである。そんなロシア滞在時代には多くのセンチメンタルな作品のあれこれが書かれ、それらの多くはロシアの民謡を実際に形として取り入れた作品や、ロシア的に響く内容の性格色濃い作品が多く目に留まる。なお、ヨハン2世の弟のヨーゼフ・シュトラウスも1862年と1869年の夏に兄のヨハン2世夫妻に随行する形でロシアを訪れて、パヴロフスクの駅舎で自作を発表し演奏して公式にロシア・デビューを果たしてもいる。
1857年には、当時のサンクト・ペテルブルクの上流社会に因んで流行のフランス語でタイトルが与えられた、印象的な内容のカドリーユ『ル・ボー・モンド(=美しい世界)』op.199が誕生し、さらに翌1858年には、渋いチェロの独奏で開始される穏やかな内容のワルツ<サンクト・ペテルブルクとの別れ> op.210や、1859年にはコーダ部分で嵐の情景の様を効果的に描いた力作ワルツ<旅の冒険>op.227が、1860年には素朴ながらも感傷的なロシア情緒が交錯する幾分悲劇的な転調で変化を見せる内容の<宝石のポルカ> op.242や、さらに言えば、「北のヴェネツィア」の愛称の由来となったネヴァ川にちなんで1864年の夏に滞在先のロシアで偶然に書かれたとされる愛らしく無邪気な内容の<ネヴァ川ポルカ> op.288などの作品がいずれも避暑先のロシアで書かれている。これらの他にもロシア風な特徴を持つ作品群が多数ヨハン・シュトラウス2世の作品表上には眠っている。どのロシア時代の作品も傑作と呼ぶべき密度の濃い作品が揃っており、それらの大半は今日、演奏される機会にほとんど恵まれず隠され埋もれた状況となっている。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューイヤーコンサートでもシュトラウス2世のロシア滞在時代の作品は、いまだにそのほんの一部分の作品が繰り返し演奏・録音されるほかは発掘演奏されずコンサート・ピースとしてレパートリ―に定着していない。

マスメディア[編集]

ヴェースチ(日刊) - レニングラード州最大の新聞
サンクトペテルブルクスキエ・ヴェードモスチ - サンクトペテルブルク市最大の新聞
ノーヴァヤ・ガゼータ(月水に発行)
コムソモーリスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルク(日刊)
セントピーターズバーグ・タイムズ(英語紙、週二回)
テレヴィディェールニエ・ラジオ(週刊、テレビ・ラジオ番組専門)
など

ペールヴイ(第一)
ロシア1
5 カナール(5 チャンネル)
NTV
など12チャンネルくらいがある。

ラジオ・ロシア・サンクトペテルブルク(66.3 MHz、ホームページ
ラジオTRKペテルブルク(69.47 MHz)
ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ(ホームページ
がある。

テレビとラジオの番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月〜日)のを載せている。

スポーツ[編集]

サッカークラブのFCゼニト・サンクトペテルブルクの本拠地
アイスホッケーチームのSKAサンクトペテルブルク(KHL)の本拠地
1914年にチェス大会が開催された際、賞金の一部を寄付したニコライ2世が決勝進出者の5名(ラスカーカパブランカアレヒンタラッシュマーシャル)に与えた称号がグランドマスターの原型である。
2018 FIFAワールドカップの開催都市のひとつとなり、新築のガスプロム・アリーナが大会中の名称を「サンクトペテルブルク・スタジアム」として使用された。大会後はロシアサッカー・プレミアリーグに所属するFCゼニト・サンクトペテルブルクの本拠地として使用される。

観光[編集]

サンクトペテルブルクの観光名所の多くがユネスコの世界遺産に登録されている。サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群を参照のこと。

美術館[編集]

エルミタージュ美術館(冬宮殿
ロシア美術館
ロシア民族誌博物館

教会・寺院・修道院[編集]

聖イサアク大聖堂(イサク聖堂)
血の上の救世主教会
カザン聖堂
アレクサンドル・ネフスキー大修道院
スモーリヌイ修道院
カトリック聖カタリナ教会
ルーテル聖ペテロ教会

その他の建造物[編集]

サンクトペテルブルクテレビタワー
タヴリーダ宮殿
タヴリーチェスキー庭園
ペトロパヴロフスク要塞
マリインスキー宮殿
マリインスキー劇場
クンストカメラ
エカテリーナ宮殿(ツァールスコエ・セロー)
ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴフ
青銅の騎士
ペトロフスキ・スタジアム
ニコラエフスキー宮殿
巡洋艦アヴローラ
シュヴァロフスキー公園
ボリショイ・サンクトペテルブルク国立サーカス
ノーヴァヤ・ゴランディヤ

年中行事[編集]

赤い帆祭り

教育[編集]

大学[編集]

歴史ある、多数の高等教育機関がある。例えば

サンクトペテルブルク国立大学(1724年創立)
ワガノワ・ロシア・バレエ学院(en:Vaganova Academy of Russian Ballet、1738年)
サンクトペテルブルク美術大学(1757年、レーピン記念)
サンクトペテルブルク国立鉱山大学(1773年)
ロシア国立教育大学(1797年)
サンクトペテルブルク国立工業大学ロシア語版英語版(1828年)
サンクトペテルブルク音楽院(1862年、リムスキー=コルサコフ記念)
サンクトペテルブルク国立医科大学(1897年)
サンクトペテルブルク工科大学(1899年)
サンクトペテルブルク舞台芸術学院(1899年)
サンクトペテルブルク国立医学院(1907年)
ゲルツェン記念ロシア国立教育大学ロシア語版 (1918)
サンクトペテルブルク国立経済大学(1930年)

研究所[編集]

クルィロフ国立研究所 (1894年)
植物栽培研究所 (1921年)
ヨッフェ物理学技術研究所 (1918年)
東洋学研究所 (1818年)

交通[編集]

空港[編集]

市の中心部から17km南にプルコヴォ空港があり、国内線のみならず国際線も多く就航し、市の玄関口となっている。プルコヴォ空港は国内線用のプルコヴォ1ターミナルと国際線用のプルコヴォ2ターミナルに分かれている。両ターミナルともアクセス鉄道はなく、バスが地下鉄2号線モスコフスカヤ駅へと連絡している。

鉄道[編集]

サンクトペテルブルクには5つのターミナル駅があり、列車の目的地が駅名となっている。

モスクワ駅 (モスクワ、シベリア、クリミア地方、カフカス地方)
ヴィチェプスク駅バルト三国ベラルーシ、東ヨーロッパ諸国)
バルチースキー駅 (同上)
ラドジスキー駅ラドガ湖ヘルシンキムルマンスク
フィンランド駅 (ヘルシンキ)
エレクトリーチカ(近郊電車)もこれらの駅で発着する。

鉄道でフィンランドからモスクワへ向かう場合、サンクトペテルブルクのフィンランド駅に到着し、市内を地下鉄、バス、タクシーなどで移動してモスクワ駅からモスクワへ向けて出発、モスクワのレニングラード駅に到着することになる。

地下鉄[編集]

市内ではサンクトペテルブルク地下鉄が運行されており、2009年現在5路線62駅が存在する。

路面電車[編集]

市内には馬車鉄道をルーツに持ち、1907年に開業した路面電車が存在する。2010年現在の総延長は205.5km[15]である。

道路[編集]

市内の道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。乗合バスマルシュルートカ(小型乗合バス)、トロリーバス路面電車の運行も行われている。タクシーは駅、空港周辺近く以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。

自動車専用道路は「サンクトペテルブルク環状道路」が完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている[16]。この環状道路の真ん中を有料「西高速直径道路」が南北に走っている。

サンクトペテルブルクから他都市への道路は、ロシア連邦道路M10モスクワへ、欧州自動車道路網のE105号線の一部)、ロシア連邦道路R21(ムルマンスクへ、同E105号線の一部)、ロシア連邦道路A181(フィンランド国境へ)、ロシア連邦道路A180(エストニア国境へ、同E20号線の一部)などがある。モスクワへの道路も高速道路がまだ完成してなくて、通常道路(M10幹線道路)で、ノヴゴロド州に入る近くまでは片側2車線で、その後は片側1車線でときどき追い越し車線もある状態となる。

近郊の都市[編集]

シュリッセリブルク
ヴィボルグ(ヴィープリ)
ペテルゴフ(ペーターホーフ)
ラフタロシア語版英語版ラフタ・センターという463mの超高層ビルが建設されている。
以下は少し遠くなるが、日帰り旅行地として頻繁に鉄道、バスが出ている。

ツァールスコエ・セロー
ノヴゴロド
プスコーフ

姉妹都市[編集]

双子都市[編集]

セントピーターズバーグ(アメリカ合衆国)
英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。

標準時[編集]

この地域は、モスクワ時間帯標準時を使用している。時差はUTC+3時間で、夏時間はない。(2011年3月までは標準時がUTC+3で夏時間がUTC+4時間、同年3月から2014年10月までは通年UTC+4であった)

ギャラリー[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

関連項目[編集]

バルチック艦隊
サンクトペテルブルクのパラドックス (数学の問題)
ラケタ
おろしや国酔夢譚(映画ロケ地)[1]
在サンクトペテルブルク日本国総領事館

外部リンク[編集]

ウィキトラベルには、サンクトペテルブルクに関する旅行ガイドがあります。
サンクトペテルブルク市 公式サイト:Официальный сайт Администрации Санкт-Петербурга (ロシア語) 在サンクトペテルブルク日本国総領事館 (日本語)
出典:Wikipedia
2020/02/19 16:30
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