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コシチュシュコの蜂起
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3.その後
コシチュシュコの蜂起の失敗の後、ポーランド国家は123年もの間、地上から姿を消した[42]。従来のポーランドの法制度は次第に宗主各国のものに入れ替えられた。一方で、コシチュシュコの蜂起はポーランドと中欧における近代的政治運動の幕開けと考えることもできる。コシチュシュコのポワニェツ宣言を受けて、ジャコビン派はポーランド極左運動を立ち上げた。ポーランドの政治家たちは、国家消滅後も19世紀を通じてポーランド内外で活動を続けた。またポーランドに軍の大部分を縛り付けられたプロイセンはフランス革命に十分な対応をとれず、ポーランド分割三国を破ったナポレオン・ボナパルトは、衛星国ワルシャワ公国という形で形ばかりながらポーランド国家を復活させた。

ポーランドの領域が三分割されたことは、この地域の経済に破滅的な打撃を与えた。数世紀にわたって構築されてきたポーランド市場が解体され、各都市の取引関係が崩壊したためである。いくつもの銀行が倒産し、共和国時代に整備された工業中心地も閉鎖を余儀なくされるものがあった。またコシチュシュコや彼以前の改革者たちが取り組んだ農奴解放政策も放棄された。三国とも新たに獲得したポーランドの領民には重税をかけ、ポーランド人は重い負担に苦しむことになった。

教育制度でもポーランドは抑圧を受けた。1773年に設立された世界最初の教育中央省庁だった国民教育委員会は廃止された。これは絶対主義的な政府が、国内少数派のポーランド人が教育を受けて再び力を得ることを嫌ったためである。ワルシャワに大学を建設する試みもプロイセン当局に反対され、ドイツ領やロシア領ではそれぞれドイツ化ロシア化が強制された。唯一、オーストリア領では政府によるカリキュラムへの介入が少なかった[43] 。S・I・ニコワイェフによれば、文化的側面から見ると、ドイツやロシアの啓蒙思想が流入したことで、ポーランド文学や美術はむしろ発展した[44]

ポーランドの知識人は、特にロシア領においては激しく迫害され追放された。コシチュシュコを支援した数千家のシュラフタが地位と領土を奪われ、その土地はロシアの将軍やサンクトペテルブルク宮廷の皇帝側近に与えられた。これに伴い、約65万人に及ぶポーランド人農奴がロシア人の支配下に移ったと推定されている[43] 。リトアニアやルテニアを中心に、多くの貴族が南ロシアに追放され、ここでロシア化を受けさせられた。その他の貴族もロシア当局に貴族の地位を奪われ、それまでポーランドで享受してきた特権や社会的地位を失い、軍役や統治へ関与できなくなった。一方で、ポーランド・リトアニア共和国時代にはカトリック領主の抑圧を受けてきた西ウクライナやベラルーシ正教農民は、ロシアによる支配を歓迎した[45]

実のところ、東ベラルーシでは正教徒は少数派で、住民の多数派は東方典礼カトリック教会に属しており、彼らが自由を手にすることはなかった。農民はコシチュシュコの名や農奴制廃止を口にするだけで鞭打ち刑を受けた。リトアニアに封土を与えられたプラトン・ズボフは、悪条件に不満を言った多くの農民を拷問して殺害したことで悪名高い。その他にも、ロシア当局は旧ポーランド領に重い徴兵制を敷き、徴兵された者はロシア帝国陸軍で極めて長期間にわたり従事しなければならなかった[43]。とはいえ、ポーランド・リトアニア共和国時代でも農民は貴族から過酷な搾取を受けていたので、ロシアの支配下に入ったことが農民の生活にどれほどの影響があったのかという点については議論が続いている[46]

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(2.3.コシチュシュコ捕縛と敗北)
[6]次ページ
(4.脚注)
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出典:Wikipedia
2019/05/18 11:02
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